楽観できない 1/3 |
>日本も無論楽観は出来ない (略) >常日頃、日本は他の国とは桁の違う、次元の違う先進国だと何度も書いている。>だから日本には何の心配も無いと言いたいのだが、そうはいかない。
天災は、忘れなくてもやってくる。
>ただ、次に挙げることなどは、むろん他国でもあるのだろうし、あくまで日本人として感じる日本の問題なのであって、他国に比べて仮に少ないとしてもだから構わないと言うことではない。
人災の事ですね。
>まず第一に、基本的に日本人には危機感が無さ過ぎる。
そうですね。日本人は、目先・手先の事柄に神経を集中させていますからね。それ以外の事は疎かですね。世界観がない。世界の事は ’我関せず’ ですね。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。が、人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) の内容もこの中にある。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。現実の垂れ流しにより危機感を感じた時には、時すでに遅しである。
>現在有る平和が当たり前の状態だと思い込み、どれだけの犠牲を払ったかを理解していない。
そうですね。日本人は理解が不得意ですね。 見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも ‘嘘つき’ にはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。 現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。 非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。
>現在の日本人の殆どは戦後生まれか、あるいは戦争中は精々十代で直接戦争を実感していない。 >たとえば、現在広島長崎の原爆の語り部と言われている人たちも、直接自分では体験していなく親の世代から聞いたことを語り伝えているのであり、原爆の恐怖を直接体験しているわけではないから、実感が乏しい。
直接体験した人たちは、実感が湧いてくるから現実を語るのが恐ろしい。だから、黙して語らない。
>むろん、それは当然のことでありそれでも語り部を続けているこの人たちの気持ちは尊いのだが、直接自分で戦争を体験した人とそうでない人では同じ話を聞いても自身の体験としての悲惨さがないだろう。
ベトナム人に戦争の体験を聞いたら、戦争の悲惨さが良くわかるでしょうね。
>私 [たかおじさん] 自身もそうであり、親世代も直接は戦争に行っていないが体験はしている。>その話は何度も聞かされていたのだが戦争体験という実感は無い。
実感を体験したい日本人は、紛争地域の非正規軍に入隊するしかありませんね。
>しかし、世界の大半は日本が戦後経済活動などで必死の時、生きるか死ぬかの経験をしたのと同様な経験をした人間が大半なのだ。
そうですね。外国には生きるか死ぬかの経験豊かな人が多いですね。
>あの米国にしてからが、様々な戦争を実際に体験した人間が無数に居る。
大統領も若い時には戦場に出ていましたね。
>嘗て米国に居たとき、湾岸戦争だと思うが出征兵士の家の戸口には黄色いリボンが付けられていた。 >その後も、米国は度々海外で戦争をし、黄色いリボンはそのたびに各家に掲げられるようになった。
黄色いリボン (前線で戦う兵士の無事を祈り、家の周囲や車、洋服などに飾る米国の習慣) はおまじないですね。
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