苅谷剛彦氏 4/7 |
>マルチボーカルから、モノボーカルへ >須賀:そのような態度を可能にすることこそが、教育の役割だということでしょうか? >苅谷:はい。まさしく、そのような判断を下すための知性というものを人類は作り出してきたのだと思います。>このような「知に対する謙虚さ」が、今から100年前、明治維新から、わずか半世紀ほどしか経っていない日本で提出された報告書の中に示されていたということこそ、私が1回目の近代化と位置付ける、「追い付き型近代」のキャッチアップの中で、日本がある種の高みに到達したということを表しているのではないかと思います。
そうでしょうね。現状報告をしていれば人は謙虚になりますね。
>明治維新から大正を経て、昭和初期にそのような知的にフェアな状態が許された背景には、日本がこの時期に、ある種の近代化の水準に到達したことがあると思いますが、その後、1930年代になると、軍部の影響力が強くなり、言論が統制され、フェアネスは失われてしまいます。
わが国のフェアネスは付け焼刃でしたね。
>日本全体が多声的な状態から単声的な状態へと変わってしまうんです。
日本人の短所ですね。個人が世界観を持っていないので、付和雷同になりやすい。現実の世界の内容が唯一であるように、日本人の内容が唯一になる。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。 わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>須賀:マルチボーカルだったものが、モノボーカルになってしまうんですね。
我が国の昭和時代は ‘唱和’ の時代に変質しましたね。
>苅谷:はい。ですから、どのような人を育てるべきかというご質問に立ち返えれば、「知に対する謙虚さ」をベースに、教育の目的、ゴールは何なのかを問うことから議論をスタートしなくてはならないと思います。
‘無知の知’ (I know nothing except the fact of my ignorance.) ですね。
>目的、ゴールのない空理空論から、理想を立てるのではない。
そうでしょうね。世界観がなければ、ゴール ‘あるべき姿’ の内容も無い。
>拙著『追いついた近代 消えた近代』の中では「内部の参照点」という言葉を使いましたが、日本の近代の150年以上の歴史の中で、私たちがやってきたことを知的財産として使い、そういったことから得られるゴールセッティングが必要になります。
そうですね。ゴールセッティングがないと、手段の目的化が起こりますね。
>苅谷:外から理想を持ってきて、日本人にはこれが足りないから、これをやらなくてはならないという論法を続けてきた今までの教育政策というのは、これまでの言い方をするならば、「謙虚さ」に欠けていたと思います。
それは猿真似の方法でしたね。
>知に対して謙虚であることによって、自分たちがこれまでの歴史の中で行ってきたことに向き合い、そこから取り出すことができる「内部の参照点」を見つけられるはずです。
内部の参照は現実直視ですね。日本語には時制というものがないから、過去の内容は疾く風化します。日本人は過去を過去そのものとして認識することが難しいですね。
>須賀:なるほど。私たちはそのような知的財産をまったく活かしきれていません。
誠に残念な事実ですね。
.
|