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2021年08月20日(金) 

 

 

>2021年08月15日 >日本を変えるには、不整合感⇒徹底的な事実追求から    

 

そうですね。我々には不整合 (矛盾) の追及が必要ですね。   

 

>1945年の太平洋戦争敗戦から76年、そして1985年の御巣鷹山事変から36年。 >この時期、原爆の日と、日航機の日と、終戦の日と、強烈な不整合感を感じる。 

 

そうですね。話の筋がつながらないことだらけですね。       

 

>終戦記念日には、いつも天皇が平和を誓うような儀式が行われる。>取って付けたようなセリフや式典ばかり。  

 

そうですね。我が国には儀式 (作法) があって教義 (教え) がない。    

 

>しかし、戦争は貴方方支配者のマネーゲームであり、勢力争いだったのでは? >戦争とは巨大なマネーゲーム~太平洋戦争と天皇家の関係~

 

戦前の為政者は飼い犬を調教することができなくなっていたのでしょうね。  

 

>1985年の御巣鷹山事変、>そのわずか1か月後の9月にプラザ合意、その後の急激な円高、バブル経済。>バブル経済後、アメリカによる構造改革、小泉内閣の登場と郵政民営化、その後日本の経済力は落ち込む一方。>日本は徹底的にむしり取られた。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人には被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は贖罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。だから嫌いです。それは陰気のもとになる。 

罪の意識のない人には、魂の救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) も見事に失敗しました。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。それは ’自由のはき違え’ となる。だから、日本人は、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。 

 

>にほんブログ村 政治ブログへ >起点となった日航機123便の墜落、一体何があったのか? >政府は、救助をわざと遅らせ、その間に徹底的に証拠隠滅を図ったことが判明している。 >日航機の積荷として幾つかの物証が上がっている。

>ブログ『(新)日本の黒い霧』の紹介−(8)JAL123便が運んでいた積荷の正体とは? >ブログ『(新)日本の黒い霧』の紹介−(9)日本は事実上の核保有国? >後は、読者の方の推理にお任せするが、それまで面従腹背していた日本政府が決定的な弱みを握られたことは間違いがない。  

 

誰に弱みを握られたのですか。    

 

>その後も、元日本航空客室乗務員の青山透子氏の地道な聞き取り調査(今年出版された『日本航空123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』)を始め、人々によって様々な疑惑が挙げられているにもかかわらず、政府もマスコミはほとんど取り上げない。>天皇の終戦記念日の式典よろしく、型通りの報道ばかり。 

 

我が国の儀式には作法があって内容がない。無哲学・能天気の人達の世の中だからである。      

 

>太平洋戦争も様々な疑惑がある。 >開戦すれば必ず負けると海軍は分析していた、誰がなんのために開戦したのか? >その開戦を決断した責任者であるはずの天皇が、戦後も居座り国体が護持されたのは何故か?  

 

我が国は人間序列の国である。序列社会には序列の頂点が必ず必要である。それは天皇である。      

 

>戦後、マスコミも学者も政治家も誰も反対せずに国論が形成された。>どのような力が働いていたのか?  

 

序列人間には序列は必要である。日本語の力で序列はできる。        

 

>戦争中は、一方的にマスコミから大本営発表がなされた。 >戦後、“大本営”とは言われなくなったが、マスコミは歩調を合わすように同じ報道をしている。 >・・・本質は何も変わっていない。(現在のコロナ騒動も)

 

事実だけを述べれば異口同音の世の中になる。

個人的な意見を述べれば各々は個性的になる。しかし思考停止の状態では個性的な表現は難しい。    

 

>金(カネ)の力・・・最大の資力を持つ、日本の闇勢力が財界人や政治家や官僚を支配するのは極めて簡単。  

 

金は目的にはならないが有効な手段になる。   

 

>かくして、国家権力の中枢は、常に権力亡者によって完璧に固められる。 

 

手段の目的化には意味がないから、空しい。玉砕に玉砕を重ねた日本軍のようなものか。       

 

>そして、政治家や学者やマスコミの中枢を完全に支配できれば、国民全員を騙し続けることも、難しいことではない。 >※貧困の時代は、カネにすり寄っていく権力亡者が沢山いた。

 

そうですね。意味も無く、むなしかった。   

 

>1970年、豊かさ実現して、その時代構造は過ぎ去った。>カネや力よりも、人々が認めることが重視される時代になった。  

 

主権在民の時代が来たのですね。   

 

>だから、それ以降、マスコミが支配する時代になった。 >★現在は、追求力の時代。 >その構造が不鮮明なのは、マスコミ情報→大多数が思考停止されているから。   

 

依然、唱和の時代ですね。   

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)     

 

>本来は誰もが認めることのできる「事実」、まともな人間社会であればそれが自然に広がっていく(はず)。  

 

そうですね。だが、現実直視は日本人には難しい。     

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。 

 

>政治家・マスコミ・学者、力を行使している支配者ほど、古い力に溺れて、構造の変化がつかめていない。   

 

そうですね。頭の構造は言語の構造に依存しています。だが日本人は文法に無頓着である。    

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。    

 

>それを変えるには、情報をうのみにしない、少しでも不整合感があればそれを追求するまで。  

 

そうですね。だが日本語では不整合 (矛盾) を追及することは難しい。それは日本人には ‘なれ合い’ があるからである。     

 

>一定の事実と歴史構造が判明してくれば、ダマシの中に巣食う支配の存在基盤も消え失せていく。   

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。 

 

>その追求と事実蓄積を少しでも進めるのが、僕らの役目なのだろう。 >(重要なのは、単発の事実だけではなく、構造として掴むこと。)

 

そうですね。だが、日本人の頭の構造改革も、日本語の言語の構造改革も難しい。  

 

>by Hiroshi    

 

 

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閲覧数33 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/08/20 08:42
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