> 第二関門は課長です。 >主計局なら公共事業担当や厚生労働担当の主計官、またはさらにその上のポストである文書課長か秘書課長です。 >この段階でそのどちらかをやっていなければ、ほとんど次官の目はないと言っていいでしょう。 > そして、文書課長や秘書課長の後に主計局次長を務める。 >または、いったん外に出て例えば近畿財務局長を経て、官房長になる。 >近畿財務局長というのは、次に次官になる人を関西にお披露目する機会なんです。 >これが次官への既定路線になっています。 >消費増税を通した大蔵官僚の胆力 >──本書の中に財務官僚(旧大蔵官僚)とのやりとりは概して禅問答めくことが多いと書かれています。 >これはいちいち謎めいた話し方で簡単に核心を明かさない相手に対して、こちらは常に推察しながら慎重に本音を引き出さなければならない、という意味だと想像しますが、なぜ禅問答めいた話し方になるのでしょうか。 >やはり、後からどうにでもいい直せるような余地を残すようなものの言い方になるということでしょうか。 >岸:おっしゃる通りです。 >「あの時にこう言った!」と後で言われるのが怖いから、例えば「消費税を導入しない」とは言わない。 >おぼめかしという言葉もありますが、「消費税導入は、今は難しいけどやる時が来たらやります」という程度の言い方にしておく。 >そういう言質を取られない会話に長けた人が多いですね。 >──本書の中で、財務省の中で出世するタイプの官僚は、センス、バランス感覚、胆力に優れた人材であると語られていますが、さらに独特の言語力や表現力を持つ人々が特に秀でる傾向があると書かれています。 >先の見えないカオスの状態を整理し、そこから物事の本質を浮かび上がらせ、それを絶妙の比喩などを交えた平易な言葉で説明する能力が重要だと書かれています。 >これはどういうことでしょうか。 >岸:消費税導入時を例にお話しますと、消費税は1989年(平成元年)4月に導入されましたが、その前に激しい反対運動があったんです。 >僕なんか消費税導入はもう無理だな、と思っていたほどです。 > 1988年(昭和63年)、自民党と野党の激しい国会論戦の中で大蔵省が「六つの懸念」を出しました。 >これは、低所得者ほど税負担が重くなるとか、物価が引き上げられるからインフレは避けられないとか、消費税導入による欠陥を示したものだったんです。 >逆張りですね。 >この「六つの懸念」を機に、自民党がそこまで言うならと民社党と公明党が、賛成はしないけど協議には応じると反対のトーンを落としたんです。 > 当時、竹下登首相の首相秘書官を務めていた小川是さんが、法案が通るかどうか苦しい最後の局面で、「消費税の欠陥をすべて洗いざらい国民に見せましょう。 >一つひとつ解決策を示して、痛みを和らげながら通していきましょう」と言ったそうです。 >それで出てきたのがこの「六つの懸念」だった。 >僕は消費税法案の可決に向けて、この「逆張り」が論議の流れを変える大きな役割を果たしたと思っています。 > 竹下首相にこの「六つの懸念」を進言した小川さんは、後に次官になりました。 >大蔵省の官僚になるような人は、子どもの頃から神童だ、天才だとさんざん言われて挫折を知らないことが多い。 >パタッと折れてしまう危険がある。 >だからこそ、度胸や胆力も大事なんです。 >この逆張りは失敗する可能性もある大きな賭けでしたが、そこに挑む胆力が小川さんにあったんですね。 >ふるさと納税に反対して飛ばされた総務次官候補 >──安倍政権が長期化する中、政と官のバランスが崩れた理由として、中央省庁の幹部人事を一元管理する内閣人事局の存在について説明されています。 >恣意的に運用されていると官僚が感じて、必然的に忖度の度合いが増す悪循環が生じていると書かれています。 >内閣人事局を巡り、官僚たちはどのような意識で動きがちなのでしょうか。 >また忖度はどのような深刻な問題を作り出していくのでしょうか。 >岸:僕は内閣人事局そのものに反対ではありません。 >政治家は国民から選ばれた人たちであり、その政治家に対して、官僚は政策の選択肢を提供する役目を担っています。 >だから官邸という一つの国家権力、政治の中枢が人事を決めるのは悪いことではない。 >© JBpress 提供 > 最大の問題は、その人事の対象人員を増やしてしまったことです。 >当初は局長級以上のポスト200人が対象だという話でしたが、その3倍の審議官以上の600人を対象にしてしまった。 > 菅さん(菅義偉首相)が総務大臣の時、ふるさと納税に反対した人がいたんです。 >税との兼ね合いで、後で必ず不都合が起きるから止めた方がいいです、と。 >そうしたら、次官になるかもしれないと言われていた人だったのに、菅さんに飛ばされてしまった。 >そういう出来事を600人の官僚がしっかり見ていて、首相や大臣に目をかけられたいとか、嫌われたくないからといって用もないのに官邸に行ってごまをすって、どんどん忖度をしてしまうようになった。 >僕はこの制度の対象人員を200人に減らすべきだと考えています。 >──これまで日本銀行総裁の座は、財務省(大蔵省)と日銀が交互に担当してきたたすき掛け人事でしたが、この流れが変わった経緯を本書の中で紹介されています。 >日銀総裁の座を巡り、どのような駆け引きが水面下で繰り広げられているのでしょうか。 >岸:大蔵省出身で日銀総裁になれるのは事務次官経験者だけだ、というのが暗黙の了解でした。 >第22代の佐々木直さんから、日銀―大蔵―日銀―大蔵と交互に6代日銀総裁を出したんです。 > その後、武藤敏郎さん(東京オリンピック・パラリンピック組織委員会事務総長)が日銀の副総裁だった時に、日銀総裁になれるんじゃないか、という話があって。 >でも、国会で野党にノーと言われて総裁になれなかった。 >そこでたすき掛け人事は途絶えて、速水―福井―白川と日銀プロパーの総裁が3代続きました。 > 現在の第32代総裁は黒田東彦さんで、最終ポストは財務官だった人です。 >黒田さんは「黒田君の主張がアベノミクスの方向性と一番合っている」と言われて、安倍元首相から引っ張り出されたんですね。 >しかし財務省の論理では、財務官が日銀総裁になるなんてありえない。
それは序列社会の掟ですね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
>財務官はナンバー2ですから。 > 次官経験のない日銀総裁が、財務省の中でどういう位置づけにあるのか。 >現役の中堅官僚に聞いてみたら、「もし武藤さんが日銀総裁になって失敗をしたとしても、財務省は必死に支援するでしょう。 >でも、黒田さんは次官経験者でありませんから、財務省で守ろうとする人はいないでしょう」と言うんです。 >財務省というのはこういう論理なのかと驚きました。 >黒田さんも大変でしょうね。 >任期はあと1年半ですが、どんな締めくくり方をするのか興味があります。(構成:添田愛沙)
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。 日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。 わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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