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2021年10月03日(日) 

 

 

>371024        管理依存から脱却できるか  >匿名希望       21/10/02 PM09

>管理は文明そのもの。 >こちらのサイトリンクより引用させてもらいます。https://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201205210000/

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>現代社会では何でもかんでも管理しようとしています。>なぜならその「管理」こそが文明の本質的な要素だからです。>人類の文明は、水を管理する、気候を管理する、野菜の成長、牛や豚の成長を管理する、お金を管理する、時間を管理する、自分の心とからだを管理するという方向で発展してきました。>現代では、空気中の二酸化炭素や、海にすんでいる魚たちや、地球そのものまで管理しようとしています。>動物たちに対しては、その行動だけでなく、出産や死や、時には遺伝子まで管理しようとします。>でもそのことで、管理された対象は、自然から切り離され、その内側に存在していた自然のリズムや生命力を失います。

 

日本人は手つかずの自然よりも、日本庭園や岩風呂など整えられた自然を好みますね。   

 

>現代社会では、人間もまた管理されています。>その行動だけでなく、思想や、知識や、出産や、死や、時には遺伝子まで管理されています。>そのように管理された社会では人間の「能動的意志」や「自由意思」というものは大切にされません。>むしろ、管理を妨げる邪魔者として扱われています。>文明社会はなぜ管理を目的とするのかというと、それは「文明」を守るためです。>管理を失ってしまったら自然な状態に戻ってしまうため、文明を維持するためには管理が必要なのです。 >つまり、そこで生きている人々のために文明があるのではなく、文明を維持するために人々が生かされているのです。 >それは軍隊と兵隊さんの関係と同じです。 >軍隊は兵隊さんのためにあるのではありません。 >軍隊のために兵隊さんが存在しているのです。>だから、軍隊では徹底的に兵隊さんを管理するのです。  

 

現実のおける ‘あるべき姿’ の追及ですね。   

 

>現代社会も同じ状態です。>子どものために幼稚園や学校があるのではなく、幼稚園や学校を維持するために子どもが必要なのです。>もちろんそうでない幼稚園や学校もいっぱいありますが、でも、社会全体の流れはそのように進んできています。>大阪の橋下さんや東京の石原さんはその流れの象徴的な人物です。>そのような幼稚園や学校では、「子どものため」ではなく、「お金を払ってくれる親」や、政治家や経済界のための教育をします。

 

教育はお金儲けの為にあるのですね。   

 

>そして、親もまた「子どものための教育」ではなく「親が自慢できるような子どもを育ててくれる教育」を望んでいます。>そして、「アメとムチ」という方法を使って、動物を調教する時のような教育をします。

 

昔からある調教法ですね。   

 

>ですから当然、子どもの自発的意志や自由意思は否定されます。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。 

 

>でも、そのような教育では「個」が育ちません。

 

そうですね。言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>そして、自己肯定感も、自尊心も持っていない大人たちばかりが育ちます。 

 

つかみどころのない人間が育ちますね。思考を停止している人間は、とかく暮らしにくいですね。        

 

>それで結局、文明も社会も家族も崩壊します。>それは、兵隊を管理しすぎてやる気を失わせてしまい、軍隊自体が崩壊してしまうようなものです。>今私たちの社会は、その崩壊直前の状態です。>地域は崩壊しました。>仲間も家族も崩壊しました。>今度は政治や経済が崩壊して日本という国自体が崩壊しそうです。>自分の思想や哲学を持たず、まともな判断能力も責任能力もない人たちが、日本の政治を動かしているのですから。

 

そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

 

>あの人たちが日本の教育制度の結果です。

 

どちらが原因で、どちらがその結果か。Which came first, the chicken or the egg? 

 

>どうやら私たちは「守るべきもの」「目的とするべきこと」を間違えてしまったようです。  

 

そうですね。手段の目的化が起こっていますね。金は強力な手段となる。しかし、金を目的にしていたのでは何事も起こらない。        

 

>本当の教育の目的は子どもに高い成績を取らせることではなく、学ぶ喜びに目覚めさせることなのではないのでしょうか。

 

そうですね。学問愛 (philosophy) の振興策ですね。      

 

>本当の仕付の目的は「従順な良い子」を育てることではなく、子どもが、「自分で判断して、自分の意志と責任で行動することが出来る大人」に成長できるように支えるためのものなのではないでしょうか。

 

そうですね。自主・独立した人間を育てることですね。   

 

>本当の政治の目的は「物質的に豊かな社会」を作ることではなく、「人々が豊かさを感じることが出来る社会」を作ることなのではないでしょうか。  

 

そうですね。わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。 

 

今の日本は、物質的には世界でトップクラスに豊かな国なのに、でも、豊かさを感じることが困難な国になってしまっています。  

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)  

 

>(後略)

>-------------

 

 

.

 

 

 

 

 


閲覧数263 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/10/03 21:52
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