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2021年11月29日(月) 

 

>静岡新聞 社説 <2021.11.29>   >外国人就労の転換   

>熟練者定着する社会に   

>政府は人手不足業種の外国人労働者の在留資格「特定技能」のうち、熟練者については資格を何度でも更新できるようにする方針を固めた。

>対象者が限定されるとはいえ、永住条件対象の拡大で事実上の移民政策は新たな段階に進む。 

>日本の産業経済は多くの場面で外国人労働者に支えられている。新型コロナウイルス感染拡大で技能実習生らの入国が制限され、改めて依存度の高さが確認された。

>特定技能は、技能実習生の不法就労などの問題を経て2019年に制度導入された。

>特段の訓練を受けずに働ける「1号」と、熟練技能を持つ「2号」の区分がある。

>1号の在留資格は上限5年だが、2号は更新可能で在留10年を経て永住することができる。

>現在、2号は特に人手不足が深刻な「建設」「造船・舶用工業」に認められている。看護分野には別の長期就労制度がある。制度改定は農業、産業機械製造、外食、宿泊などにも広げ、全14分野を対象にする方針とされる。

>外国人労働者はこれらの業種に不可欠な存在だ。

>中でも現場のリーダーとなれる熟練者は事業拡大や成長の戦力として期待される。熟練者が定着する職場、社会づくりが重要だ。

>ただ、8月末時点で特定技能による在留者は約3万5千人いるが、熟練者である2号資格者はいない。制度の実効が上がる熟練者確保策が問われる。

>2号資格者は家族帯同が可能であり、働く当人だけでなく、家族が暮らし学ぶための日本語教育も車の両輪として拡充する必要がある。

>19年に施行された日本語教育推進法に沿って、国や地方自治体、企業は支援の責務をまっとうしなければならない。

>1989年に1万6千人だった静岡県内在留の外国人は2008年には10万人を超えた。

>その後いったん減少したが、19年には再び10万人台となった。

>20年6月末時点で10万237人に対し、特定技能は200人にとどまる。

>県は役所の窓口対応からゴミ出しルールなど地域のお知らせまで、なるべく短文を使うなど「やさしい日本語」の普及に努めたり、日本語ボランティア養成の講習会を開催したりしている。

>企業での日本語教育と公的な学習支援の連携を強化し、地域活性化への好循環を目指したい。

>外国人が働きやすく暮らしやすいまちは、日本人にも魅力的なまちになる。

>やさしい日本語への関心の高まりは多文化共生の地域づくりにつながる。   

 

……………………………………………………………………………………………..

日本語は写生画 (スケッチ) の言語である。実況放送・現状報告の為にあるようなものである。わき目も振らず現実描写に専念できる。そして時代に流される。   

だが、日本語は非現実 (考え) の内容を表現する為の言語ではない。だから、過去の経験に基づいて未来の内容を創作し、これ指針とする活動が難しい。だから、日本人の活動は何処を目指すということも無い。ただその日暮らしの生活をやり過ごすことになる。

政治には未来の構想が必要である。政治家はその内容に基づいて民の力の結集を図れば、今までには存在しなかった個人の考え通りの新しい世界が開けて来る。マスコミも個々の政治家の政治哲学を広く読者に解説すべきですね。それができないうちは、我が国民は政治音痴の民にとどまる。   

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

 

 

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閲覧数295 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/11/29 23:04
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