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2022年01月17日(月) 

 

 

>学校教育は「思考停止」の元凶   > 2021年8月2日 /  2021年8月2日  >学校教育は「思考停止」の元凶  >こんにちは、ゴリベです。 >最近、「学校教育は時代遅れだ」ということが、よく言われていますね。 >そこで、この記事では  >・学校教育は、そもそも何のためにあるのか  >・なぜ、学校教育が時代遅れなのか  >・学校教育の悪影響  ・これからの学校教育に求めること  について説明していきます。 >この記事を読むことで、少しでも多くの人が、学校教育について考えるきっかけになれば嬉しいです。 >それでは、いってみましょう!!

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>目次  >義務教育は子どもの義務じゃない  >学校教育は何のためにあるのか  >時代に合わない学校教育  >学校教育が生み出す害悪  >学校だけの責任ではない  >これからの学校教育に求めること   >まとめ

>義務教育は子どもの義務じゃない  (略)  >義務教育は、親・国・自治体に対する義務で 勉強をしたい子どもには、教育を受けさせなきゃいけないよ ということなのです。 >ですから、もし子どもが「イヤだ!!」と言っている時は、教育を受けさせなくてはいけないわけではないのです。

 

義務教育は子供本位の法律ですね。   

 

>では、そもそも学校教育の目的は何なのでしょうか。  (略) >「勉強して、いい大学入って、いい会社に入る」 ということが、人生の幸せをつかむ王道パターンになっていたのです。 >そして、学校の役割としても、時代に沿った適切なものだったわけですね。  

 

いい大学・いい会社の ‘いい’ は序列順位に関する評価ですね。その内容の疎かなところには問題が在りますね。   

 

>時代に合わない学校教育  >しかし、現代は時代が変わりました。 >IT革命が起きて、産業化社会から情報化社会になりましたよね。 >現在も今後も、大量の社会の兵隊は必要のない時代になったのです。 >歯車的な仕事は、全てAIに奪われていきます。 >「1億総中流社会」のように、平均的な人間が大量に必要で、みんなが同じような物質的豊かさを追い求める時代は終わったわけです。 >これからの時代は、同質化した平均的な人は、活躍の場を失って苦しくなっていきます。 >逆に、産業化社会では日の目を見ることがなかった個性こそが、重要になってくるのは誰の目にも明らかです。 

 

‘没個性の社会よ、さようなら’ ですね。   

 

>それにも拘らず、学校では依然として同質化する教育が続けられています。>みんなと同じことをすることが、正しい ということが、100年前と変わらず続いているのです。 >例えば、授業では 一人の教師が黒板に書いて、30~40人の生徒が書き写して終了 ということが普通に行われています。 >これは、平均的な生徒に対する授業でしかありません。

 

日本人は変化を望みませんからね。日本人の生活には形式があって内容がない。だから、形式のみに拘って、内容の変化に応ずることが難しい。       

 

>授業は半分の生徒が退屈  >できる生徒に対しても、できない生徒に対しても、平均に合わせさせることが目的になってしまっています。  

 

個性軽視の習慣ですね。   

 

>また、基本的に学校教育は、苦手を克服する教育です。 >得意を伸ばす教育ではないのです。 >才能を伸ばすことをせず、平均的な人間を育成しようとしています。

 

そうですね。学校教育は金太郎飴の製造装置のようなものですね。       

 

>それに、やたらと暗記学習が多いですよね。 >今の時代、正確に暗記していなくてもググってしまえば終わりなんですけどね。 >まあ、この辺りは細かい話ではありますが。 >要するに、社会ではこれから必要なくなる定型化した平均的な人間を、未だに学校ではせっせと量産しようとしているということなのです。  

 

日本人は形式に拘るので内容を変えることができませんね。    

 

>学校教育が生み出す害悪   >そのような時代錯誤の教育が続いていることによって、大きな悪影響が出ています。 >それが >・思考停止 >・他責思考 >です。>当たり前と言えば、当たり前ですよね。

 

日本人は思考停止により無哲学・能天気になっていますね。

日本人には意思がないので、自分には責任もありませんね。だから、必然的に他責思考になりますね。   

 

>・個性を消して、周りと同じようになることを求められる。 >・言われたことを失敗せず、成し遂げることが評価される。 >という環境で、ずっと教育を受けているわけですから。  

 

子供は指示待ち人間になりますね。社畜の生活をするのでしょうね。    

 

>子供の頃に、自分で考えることをやめさせ、個性を消すことを徹底的に教えられるのです。 >大人になって急に、「多様性」だの「個性が大切」だの言われても >何言ってんの?? >ですよね。 >そして脱個性を成し遂げて、思考停止・他責思考を手に入れた後は、「同調圧力」を振りかざすようになります。 >最悪ですよね・・・・ 

 

ご唱和の社会を求めて同調圧力の信奉者になりますね。    

 

>学校の責任が100%とは言いませんが、今の世の中の思考停止・他責思考・同調圧力に関して、学校の責任は非常に重いと言わざるを得ません。>現在の学校教育は、以前のような物質的豊かさを求めた右肩上がりの時代には、合ったものでした。 >しかし、現代においては、害悪でしかないのです。 

 

批判は易しい。猫に鈴をつけるネズミは誰なのか。   

 

>学校だけの責任ではない >ただ、学校教育の責任は、学校にのみあるわけではありません。 >当然ながら、国にも責任があります。 >そして、親にも大きな責任があります。 >要は、大人全員です。   

 

そうですね。とかくこの世は無責任か。大人が自己の責任を自覚することが大切ですね。      

自己の意思を表明すれば、当事者ないしは関係者になる。表明しなければ、傍観者にとどまる。日本人には意思がないから意思表示はなく常に高みの見物となる。傍観者を続けていると政治音痴はやまらない。     

‘今度の戦争は私たち農民の一向知らない間に始まり、勝っていると信じている間に負けてしまった。私たちのあずかり知らないことに私たちは懺悔する必要はありますまい。国民を欺いていた背信の人々にこそ懺悔は必要です’。 (地方に住むある男性)

‘誰も責任をとりたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。 ・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えているはほとんどいなかった。’   (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)  

 

>親を含めた大人は、自分の時代のことを子どもに押し付けています。 >時代が変わったにもかかわらずです・・・・  >親の時代の常識は、子どもの時代の常識ではありません。 >言ってみれば、明治時代にひたすら武士を育てているようなものです。 >子どものためを本当に思うのであれば、親をはじめとした大人は、考えを改めるべきです。

 

そうですね。しかし、考えを改めるのは非常に難しい。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

>これからの学校教育に求めること  >学校教育がこれから、時代に合った教育として  >・プログラミング学習  >・教育のIOT改革  >・英語の早期教育  >などが言われたりします。 >しかし、これらも的がずれています。 >子どもたちにとっては、現代ですら時代遅れなのです。 >今の子どもたちが大人になるときには、時代はさらに変わっています。 >そしてその時代を作るのは、今の子どもたちなのです。 >つまり 子どもたちが学ぶべきことが何なのか、大人にはわからない ということです。 >子どもたちは、自分の手で時代を切り開いていかなくてはなりません。

 

そうですね。能動的な日本人が必要ですね。      

 

>そのために必要なのは、大人が自分の価値観を押し付けることではありませんよね。  

 

日本人の序列に基づく価値観が問題ですね。良い学校・良い会社と言った時の ‘良い’ の内容が問題ですね。

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。

 

>子どもたちに必要なのは ・考える力 ・創造する力 ・適応する力 ・失敗の経験 などです。>挑戦と失敗を繰り返しながら、経験を得て学んで成長することこそが、子どもたちには必要なのです。

 

そうですね。特に失敗は物事を考えて掘り下げる貴重な動機になりますね。   

 

>そして、大人が出来ることは、そのような機会を子どもに提供することだけではないでしょうか。  

 

そうですね。大人は子供を注意深く見守ることですね。   

 

>子どもは過程こそが大切   >子どもにチャンスを与えて、見守る。 >そして、必要な時だけ、そっと手助けをする。 >今後求められる教育は、そのような教育だと思います。

 

そうですね。    

 

>まとめ   >・現代の学校教育は、時代遅れ  >・同質化することで、思考停止・他責思考・同調圧力が蔓延っている  >・学校だけでなく、大人全員の責任  >・子どもたちが、挑戦と失敗を繰り返しながら成長できるようにするべき  >学校が変わるとしたら、まず国の方針が変わらなくてはいけません。>高齢者を優遇して、子どもをないがしろにしている現状では、まず難しいでしょうね。  

 

民の心が変わらなければ、国の方針は変わりませんね。我々大人は学校教育に責任があります。いつまでも日本人は傍観者ではいられません。     

 

>でも、少なくとも親は自分の子どもに必要な教育をすることが可能です。 >ぜひ親の皆さんは、ステレオタイプの教育を妄信せずに、子どものためになる教育をしてあげてください。

 

言うのは易しいが、行うのは難しいですね。   

 

>親が思考停止だと、子どもも思考停止になってしまいます。

 

そうですね。我が国民の残念な仕来りですね。       

 

>最後まで読んで頂き、ありがとうございました。    

 

どうもご苦労様でした。     

 

 

 

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閲覧数366 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/01/17 22:10
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