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2022年05月04日(水) 

 

 

>現代ビジネス   >天皇の戦争責任という難題…ウクライナ政府「昭和天皇とヒトラー」写真掲載から考える   > 堀 有伸 2022/05/04 06:00

 (略)

>今年2月にロシアがウクライナに侵攻した。  >当初は軍事力で勝るロシアが圧倒するという予想もあったが、ウクライナ国民が良く準備していて勇敢かつ頑強な抵抗を示していること、アメリカ・ヨーロッパを含めた多くの国がウクライナを支援していることもあり、情勢は長期化しつつある。   

 

学習の効果によりクリミヤ侵攻の二の舞にはならなかったですね。良かったですね。   

 

>日本も西側諸国の一員としてウクライナへの支援とロシアへの制裁に参加しているが、ロシアの関係者が核兵器の使用や、日本の領土への関心を口にするなど、安全保障の面でも憂慮するべき事態となっている。  

 

そうですね。 ロシアの飽くなき領土拡張意欲を見せつけましたね。    

 

>そのような中で、4月上旬にウクライナ政府がロシアのプーチンを非難する意図の動画をツイッターに投稿し、そこにヒトラー・ムッソリーニと並んで昭和天皇の写真が登場した。   

(略)

>そのことを日本の一部の団体や人々が問題視して抗議したために、ウクライナ政府がその動画を削除する経緯に至っている。   

 

そうですね。   

 

>4月下旬にはウクライナ外務省によるウクライナを支援する国への感謝の意志を表明する動画を投稿したが、その中に日本の名はなかった。  >ウクライナ側からは、「武器支援の文脈で感謝の意を示した」とあったが、日本からの抗議に謝意の表明があったという。 >私は上記の2点に関して、非公式ではあっても日本からの抗議が行われ、それに対してウクライナ側の訂正や謝意といった反応を得たという経緯について遺憾に思っている。   

 

そうですね。私も遺憾に思います。日本国政府の国際社会にたいする無理解・無関心によるものですね。      

 

>そのようなことは行われるべきではなかった。      

 

そうですね。抗議は国際社会の常識に逆行しますね。ウクライナの理解は得られていないでしょうね。   

 

>これは道義的に問題であるし、国際社会における日本の信用を低下させ、ひいては安全保障の分野にも悪影響を与える内容であるからだ。   

 

そうですね。自分の身を危うくする行為につながりますね。    

 

>以下に、その理由を説明していく。  >日本と天皇の戦争責任をめぐって   >昭和天皇の写真が出てきた動画については、次の二つの論点が関係している。  >(1)昭和天皇の第二次世界大戦における責任問題を、どのように考えるのか。 >(2)日本が全体として、第二次世界大戦でアジアをはじめとした周辺国に多大な損害を与えた事実を認識し、それを反省しているのか。   

 

我が国の政府は子供たちに先の大戦に関する責任の所在と反省を教えていませんね。だから、国民は答えに窮する場合が多く出てきますね。     

 

>今回、このウクライナの動画を問題とみなしている人々は、その根拠として(1)の問題について、ウクライナによって「昭和天皇に戦争責任があった」と主張されたと理解し、それに憤り、強く抗議している。  >確かにこの問題について考えることは容易ではない。 >例えば2000年に出版された『天皇の戦争責任』という書物の中で、橋爪大三郎が「(天皇に)戦争責任はない」「なぜなら、天皇は、帝国憲法の定めに従い、立憲主義の精神に従って、行動したから」と主張したのに対して、加藤典洋は「戦争責任がある」「兵士たちに戦場に行くように命じ、彼らを死なせた」「道義的な責任」があったとする。    

 

日本人は皆お喋りロボットのようなもので、その発言内容には意味も責任もないということでしょう。

 

>筆者も、この点についての意見を本論では表明しない。 >このような議論は、日本社会や日本的集団の意思決定のあり方、リーダーに期待される責任のとり方が特殊であるという認識と関連している。   

 

日本社会の特殊事情を外国人にも分かりやすく説明する必要がありますね。   

 

>日本では、集団の格付けにおける最上位者が、必ずしも有事の際の最終責任者とみなされない場合がある。  

 

我が国においては人間の序列が大切であって、責任は大切ではないということですね。とかくこの世は無責任ということでしょう。      

 

>したがって、昭和天皇の戦争の意思決定へのコミットメントのあり方は、ヒトラーやムッソリーニのそれとは異なっており、それにもかかわらず、ウクライナ政府がその点を同列に扱ったことについては、決して承服できないというのが、今回の一部の日本の関係者から提出された抗議のロジックのようである。

 

日本人には意思がないでしょう。西洋人には意思がありますから、昭和天皇はヒットラーやムッソリーニとは責任の度合いが違いますね。       

 

>しかし、そのような日本の特殊事情を理解してもらうことを、世界中に求めていくことは、今後わが国が国際社会の中で生きていく上で、本当に現実的なのだろうか。   

 

我が国の特殊事情を世界中に理解してもらうには、科学的な説明が必要ですね。国際社会における相互理解は大切ですね。      

 

>これはあまりに複雑で、通常の近代的な法の感覚からは懸隔のある議論なのではないだろうか。     

 

複雑であれば、その解明の価値はあるでしょうね。 

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではないでしょう。 

日本人は意思を認めることのできないので、意思決定に難渋して行動開始が遅れる。この事実は以前から外国人にも知られていた。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)    

要するに日本人は意思の内容に焦点を当てて話をまとめ上げることが苦手である。だから集団行動の開始が遅れるのである。

 

日本人には意思がないが恣意がある。だから、我が国では恣意 (私意・我儘・身勝手) を鍛えて意思の代わりに利用する。鍛えられた恣意は意地・根性・大和魂などと呼ばれている。そして、日本人は意思決定 (理性判断) の代わりに恣意決定 (盲目の判断) をする。意思に関する討論の代わりに、恣意に関する談合 (腹の探り合い) をする。意思疎通の代わりに、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) をする。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味をなさない。だから説明責任は取れない。言い訳のできない ‘理由なき反抗’ のようなものになる。そこで悔し涙が出る。    

 

自由とは意思の自由の事である。日本人には意思がない。意思がなければ自由そのものにも意味がない。だから日本人の場合は ‘不自由を常と思えば不足なし’ となる。

自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がないので、常に傍観者になる。序列関係のない深刻な事態にも高みの見物をしている。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。

 

意思の無い人間には責任がない。これはちょうど死刑執行人の立場のようなもので、彼らは人が死んでも殺人罪には問われない。彼らには殺意という意思がないからである。人々は自己の意思に依ることなく、事の次第・自然のなりゆきにより行動をおこす。だから、リーズン (理性・理由・適当) により行動することが無い。これはアニマルも同じである。説明責任が取れないので、兎角この世は無責任となる。 

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’   (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)       

日本人が当事者・関係者となるのは自己の属する序列に関する事柄だけである。これを連座性というのかな。日本人の責任は意思の無い義務である。牛馬の苦しみのようなものである。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)     

    

意思の無い人間には、能動的な行動をとることが無く受動的な行動ばかりをする。だから、加害者意識がなく被害者意識ばかりになる。被害者意識ばかりの人間の犯行を見るのも恨めしい。だから、’恨めしや―’ と言いながら幽霊も出る。    

西洋人のような意思のある人間には加害者意識がある。それは反省の意識ともなり、その意識が高ずると罪の意識にまで発展する。そこで深刻な病める魂を救済する必要に迫られる。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) の存在には意味がある。   

罪の意識のない人達に謝罪をさせるのは難しい。彼らは謝罪を自虐の強要と間違えて非人道的な問題と捉えて大変なことになる。

[恣意] 各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’ であって、本音は、’私意・我儘・身勝手 である。非現実の内容が存在しないから、現実の中に人間の行為がうずもれてしまい低俗な感じがするのは避けられない。  

 

>逆に、私たちはそのような水準で、他の国家の特殊な事情を理解して配慮した行動を取れているのだろうか。  

 

特殊事情の相互理解は国際社会にとって大切ですね。    

 

>私が恐れるのは、上記の(1)について反論しているつもりが、(2)の「日本全体が、第二次世界大戦で周辺の国に多大な迷惑をかけたことを認め、反省していること」という国際社会のからの認識を覆そうとしていると、誤って受け止められてしまう危険性と、そうなった場合の損失の大きさである。

 

誤解は避けなければいけませんね。    

 

>日本は戦後、戦争の過ちを反省し、平和国家に転換したことを表明し、それが受け入れられたことで国際社会に受け入れられた経緯を持つ。  >その前提を、日本が自ら覆そうとしていると誤解された場合に、国際的な信用・威信がどれほど失われるのかという点について、今回取り上げているようなウクライナへの抗議を行っている人々は、あまりにも軽く考えている。 >ドイツやイタリアから、同様の抗議が行われていないことの理由を考えてみる必要がある。  

 

そうですね。日本人だけが抗議して、ドイツ人やイタリア人はウクライナに抗議しませんでしたね。これには西洋式の教養が関係していますね。我々日本人は無理解の従順に耐えるべきではありません。   

現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。日本人は正解が一つしかない問題を作る。だから、ご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  思考を停止して人は、つかみどころのない人間になる。日本人には考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

>日本の安全保障とアメリカとの関係   >問題を安全保障の分野に限定して、さらに議論を進めたい。 >参照するテキストは古関彰一による『対米従属の構造』である。   

 

後追いに専念する日本人の話ですね。  

 

>現在の日本の安全保障の基軸になっているのは日米安保条約であるが、アメリカ側ではそれに先立って、NATO(北大西洋条約機構)を念頭に置いた太平洋協定案が構想されていたそうである。 >1951年の段階で、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、日本、アメリカ、場合によってはインドネシアを含めて、安全保障についての相互援助取り決めを結ぶことが目指された。   

 

アメリカ側の世界戦略ですね。   

 

>しかし、第二次世界大戦の記憶が生々しいこの時点で、太平洋島嶼国家から日本が信用を得ることはできなかった。 >フィリピンから日本の賠償・戦争責任問題が、オーストラリア、ニュージーランドからは、日本が再軍備することへの疑念が提出された。  >アメリカは、これらの国に対して、冷戦体制下で日本の復興が不可欠であること、そして日本の再軍備の脅威に対しては、アメリカと在日アメリカ軍が日本再軍備に対する「ビンの蓋」となり、日本軍が脅威となることを防ぐことになると力説する必要があった。  

 

悟空の頭にはめる緊孤児のようなものか。   

 

>アメリカは結局太平洋協定を諦め、これを3分割し、オーストラリア・ニュージーランドとの安全保障条約、フィリピンとの条約、そして日米安全保障条約が締結された。 >戦後の日本の安全保障は、日米安全保障条約を基軸に成立している。 >それについて、日本の主体性があまりにも制限されているという批判がなされている。  >しかし歴史的な経緯を見る場合に、日本の周辺の国家は、日本が復興して再軍備を行うことを強く警戒していた。 >アメリカがそうなった場合の対処を行うという保障を行ったことで、日本の国際社会への復帰が許された経緯がある。   

 

日本は危険な国です。根本が無責任体制で成り立つ国ですからね。    

 

>今後日本がこの分野でも主体性を確立したいと望むのならば、アメリカの保証がなくとも、日本が第二次世界大戦の戦禍をもたらしたことを十分に反省しており、戦前・戦中とは異なる新しい価値観を奉じる国家となったという国際的な信頼を得続けることが、不可欠な条件なのである。

 

そうですね。 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)     

 

>その後、日米安全保障条約は、アメリカ側からは東西冷戦下におけるソ連を封じ込めるための、冷戦終結後はアメリカの安全保障上の世界戦略を日本の協力を得ながら遂行するための機構の一部を担っている。 >このような日本の安全保障をめぐる状況については、その注力する方向が、アメリカとの二国間関係に集中し過ぎており、他の同盟国との信頼関係を長期的な視点で構築していくことへ配慮が欠けていると批判することができるだろう。

 

わが国の国際社会に対する信頼はなかなか回復しませんね。   

 

>誤解を避けたいのは、アメリカとの関係は決して軽視できないということである。 

 

そうですね。アメリカは観音菩薩のようなものかな。  

 

>アメリカとの関係が最重要であるという認識を外すことはありえない。  >しかしそれを基盤にしつつ、安全保障の観点から他の諸国との信頼関係を構築していくことも、十分に意図されねばならない。   

 

そうですね。   

 

>私たちは現在、ウクライナが安全保障について、実に巧みに多くの国からの信頼を得て、多くの援助を引き出している姿を目にしている。 >一方、もし日本に安全保障上の危機が生じてしまった場合に、同じように多数の国から援助を受けられるはずであると、筆者は確信を持って予想することができない。   

 

そうですね。わが国はウクライナからも誤解されていますね。     

‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。 北方領土だ。 だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。 (小野寺元防衛相) 

 

>このような状況で、安易に「日本は第二次世界大戦の戦禍をもたらしたことについて、本当は反省していないのではないか」と誤解されるような行動は、慎まれるべきである。

 

そうですね。我々日本人には教養が必要ですね。      

 

>加藤典洋、橋爪大三郎、竹田青嗣『天皇の戦争責任』(2000)径書房    >古関彰一『対米従属の構造』(2020)みすず書房     

 

 

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