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2025年06月24日(火) 

 

>テレ朝news   >「心は今も戦争状態」戦禍を生き延びた元少年兵が語る“過酷な夏”沖縄『慰霊の日』   >テレ朝newsによるストーリー・   >14時間・   

>沖縄戦が終結して80年。   

>10代の若者が動員され、命を落とした沖縄。   

>なかには兵器を持って最前線の戦場に送り出された少年兵もいました。   

>戦禍を生き延びた元少年兵が過酷な夏を振り返りました。   

>沖縄戦 ガマに眠っていた“校章”   

>地下深くに広がる自然の洞窟『ガマ』。   

>ここでボランティアとして戦没者の遺骨を探す夫婦がいます。   

>浜田哲二さんと律子さんです。   

>今年2月、あるものを発見しました。   

>浜田哲二さん   

>「このあたりから出てきた。    

>『中』と書いてある文字と素材、これを見て帽章だと思って」   

>見つかったのは帽子に着ける校章。   

>どこの学校のものなのか、程なくして判明しました。   

>開南中学校は1936年、当時、沖縄県で唯一、旧制の私立中学校として那覇市に創設された学校です。   

>しかし、戦争で生徒たちが軍に動員され、その多くが犠牲となったことで戦後、廃校となりました。   

>わずか9年しか存在しなかった“悲劇の学校”です。    

>戦禍に消えた“悲劇の学校”   

>当時、開南中学校に通っていた外間永徳さん(95)。   

>外間永徳さん   

>「(開南中学校)だと思います」    

>(Q.間違いないですか)   

>ないと思います。   

>(金具が)こっちに飛び出して、帽子の真向いに穴を空けて差し込んで。   

>もうちょっと光って輝いていたよ。   

>みんなに見せたいくらい上等だなと思っていた」   

>戦争の激化に伴い、県内の学校では授業がなくなり、生徒たちは軍の防空壕堀りや陣地構築の手伝いなど“後方支援”に動員されていきます。   

>それは開南中学校も同じでした。    

>外間永徳さん    

>「一兵まで勝つまで戦うと教え込まれている。   

 

本当に我が国が勝つと信じられたのでしょうかね。言論統制が今の北朝鮮のように厳しかったのでしょうね。   

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)    

 

>小さい子も大きい子も皆同じ」    

>分かっているだけでも190人の生徒が犠牲となりました。   

>そのなかには外間さんの同級生も含まれています。   

>外間永徳さん   

>「お酒を飲んで皆と楽しんでる時に思い出す。   

>こいつもいたら一緒に飲めたのにって。   

>静かに眠ってくれと言いたいな」   

>戦場に送られた“少年ゲリラ兵”    

>アメリカ軍が上陸し、苛烈を極めていく沖縄の地上戦。   

>激しい戦闘が続くなか、ついに子どもたちも“最前線”へと駆り出されていきます。   

>16歳で戦場へと送られた、瑞慶山良光さん(96)。   

>瑞慶山良光さん   

>「それはもう大変でした。   

>生きているより死んだ人のほうが多い。   

>ああいう所では。   

>戦場では」   

>瑞慶山さんが入隊したのは『護郷隊』。スパイ養成機関とされる、陸軍中野学校の出身者らを中心に組織された秘密部隊で、地元の10代半ばの少年たち約1000人が“少年ゲリラ兵”として集められました。   

>少年兵たちに課せられた任務は橋や道路を破壊し“アメリカ軍の進攻を遅らせる”こと。   

>さらに…。   

>瑞慶山良光さん   

>「訓練をやらないですぐ戦争に出されて。   

>戦車に体当たり作戦をやって。   

>1つの弾みたいになって、人間が爆弾をはいて戦車に飛び込む。   

 

自爆攻撃一本やりですね。   

 

>逃げるも逃げられなくなっている。   

>死ぬ練習からやりなさいというわけ」   

>その作戦の様子を描いた絵があります。   

>戦車を破壊するため、用意されたのは10キロの爆薬。   

>3人1組になり、爆薬を詰めた木箱を背負って敵の戦車に忍び寄り、爆薬に火をつけ爆破する。   

>自らの命と引き換えに突撃する、体当たりの作戦でした。   

>瑞慶山良光さん   

>「生きては帰れないっていうことで遺骨箱を準備されていた。   

>死ぬ前に」    

>元少年兵「心は今も戦争状態」   

>しかし、決行の直前に作戦は中止。   

>寸でのところで生き延びることができました。   

>それでも戦後、PTSDを発症し、今でも心は“戦争状態”だといいます。   

 

本当にお気の毒でしたね。   

 

>瑞慶山良光さん   

>「土の中でいつもこうして眠っているような。    

>そうしないと眠れない。   

>真っすぐに横になると起き上がることができない。   

>戦争の時から治らない」   

>あの夏から80年。   

>戦争に巻き込まれ、戦禍を生きた少年兵が今思うこと…。   

>瑞慶山良光さん   

>「戦車と命を交換する作戦に巻き込まれてしまった。   

>これが今になって悔しい。   

>なんのために生まれてきたのか。   

>こんな苦しむために生まれてきたのか。   

>だからもう戦争は起こさないようにしたほうがいい」   

 

そうですね。   

日本の平和運動は体験者の証言だけにずっと依拠し続けてきた。体験者は現実を語る者であるが、平和の礎には政治の仕組みを調べ、「改革」「運動」「参加」に関する考え (非現実) の内容を語る人が必要である。これは高等教育の成果から得られるものである。   

政治には未来 (非現実) の先取りが必要である。だが、日本人には現実があって、非現実がない。だから、日本人は現実にとらわれて行き先を見失い政治が迷走する。    

 

>戦後80年「沖縄慰霊の日」   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数12 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/06/24 18:43
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