>現代ビジネス >キリストの教えは、日本人には「嫌悪感を抱かせる」…明治時代、日本に来たイギリス人女性がそう感じた理由 >学術文庫&選書メチエ編集部の意見・ >1時間・ >キリスト教と仏教を比較するイザベラ・バード >日本はいったい、世界のなかでどのような立ち位置を占めているのか。 >世界情勢が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えたという人も多いかもしれません。
そうですね。
>日本が世界に占める位置を、歴史的な視点をもって考えるうえで非常に役に立つのが、『イザベラ・バードの日本紀行』という本です。 >イザベラ・バードは、1831年生まれのイギリス人。 >オーストラリアや朝鮮などさまざまな国を旅し、旅行作家となりました。 >彼女は1878年、47歳のときに日本を訪れています。 >北海道をはじめ、いくつかの土地を旅しますが、その様子をあざやかにつづったのが、この『イザベラ・バードの日本紀行』なのです。 >19世紀の後半、日本はどのような姿をしていたのか、それはイギリスという「文明国」「先進国」からやってきた女性の目にはどのように映ったのか、そこからは、明治日本とイギリスのどのような関係が見えるのか……本書はさまざまなことをおしえてくれます。 >例えば、バードは新潟県の寺院を訪れます。 >そこで彼女はキリスト教と仏教を比較しながら、キリスト教が日本で広まらない理由を分析しています。 >同書より引用します(読みやすさのため、改行を編集しています)。 >*** >この寺院の境内には、蓮の花の上にいつもの姿勢で座っているとてもみごとなブロンズ製の釈迦像があります。 >仏教徒が清らかさと正しさで地獄の拷問を逃れて達するのが、この釈迦像の表している涅槃です。 >釈迦は眠っているのでもなく、覚醒しているのでもなく、動いているのでも、考えているのでもなく、意識があるかどうかは不確かです。 >彼は存在する──それがすべてです。 >なすべきことを終えた──朦朧とした至福、無が残っています。 >これが敬虔な仏教徒の切望しうる最良の来世なのです。 >最大の悪は生です。 >最大の善は涅槃、すなわち生における死なのです。 >キリストの教えは日本人にとって嫌悪感を抱かせる >寺院を訪れるたびにわたしはいつも、仏教がアジアの人々に慈悲、生に対するやさしさと敬いの教えを与えてきた功績を十二分に認めずにはいられません。 >その祭壇でいけにえが燻し焼きにされたことは一度としてなく、葉陰をなすその木立が残酷な、あるいは恐ろしいできごとの場となったこともないのです。 >また子供たちをいけにえに要求し、火のなかを通らせるモロク[セム族の神]のようなものもなにひとつありません。 >仏教が教えてきたのはこのようにあらゆる形となって表れる生に対する尊厳である以上、キリストの贖罪に関して遣われる神学的用語、さらには聖書のことばですら、日本人の心にとってはまず第一にきまって嫌悪感を抱かせるものなのです。 >またレビ記におけるいけにえのあり方全般、「血を流すことなしに罪の赦しはない」というような記述は、日本人のキリスト教について知りたいと思う気持ちをまちがいなく阻むものと思われます。 >日本人には原罪の観念はなく、キリストの教えが原罪その他のテーマに関する彼らの概念を刷新するには、長い時間がかかるにちがいありません。
日本人には意思がない。意思のない人間には加害者意識もなく、罪の意識もない。だから原罪の観念もない。 インドヨーロッパ語の文法には時制 (tense) というものがある。時制があると文に未来の内容があり、印欧語族の人には意思がある。意思があると加害者意識に煩わされて、罪の意識に苦しめられる。そして贖罪の必要性に迫られる。 日本語文法には時制がなく、日本文には現実があって、非現実がない。それで、日本人には事実だけがあって、考え・哲学がない。これは罪を知らない子供と同じ状態である。 キリストの教えが原罪その他のテーマに関する日本人の概念を刷新するのは不可能でしょうね。
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