>ダイヤモンド・オンライン >「高学歴はMARCHまで? 日東駒専まで?」。学歴のボーダーラインから本質を考える >びーやまによるストーリー・ >8時間・ (略) >高学歴はMARCHまで? 日東駒専まで? >――どこまでが高学歴なのかというのは常にホットな話題かと思います。 >びーやまさんはどこまでが高学歴だと思いますか? >びーやま氏(以下:びーやま):個人的にはMARCH以上ですかね。 >このあたりであれば、大学名で就職時に弾かれたという話も聞かないですし、世間的な認知度も、入試の難易度も高いので、高学歴と言っていいのではないかと思います。 >――MARCHですか。 >結構厳しいというか、絞りすぎな気もするんですが。 >びーやま:もちろん日東駒専などもいい大学であることは間違いありません。 >ただ、日東駒専だと上位の学生は偏差値50後半だったりするのですが、下位の学生だと偏差値40近い学生もいるので、大学名で一律に高学歴というのは少し無理があるかなと。 > なので、その意味では個人レベルで見れば、高学歴だと言える学生はいると思います。 > ただ、学生たちにインタビューを行うと、日東駒専は学歴フィルターに引っかかるという話もよく聞きます。 >――こういった話をすると「それは学校歴であって学歴ではない!」という意見もよく聞きます。 >そのあたりについてはどう思われますか? >びーやま:それはそうなんですが、古い考え方かなとは少し思います。 > 昔はどの大学でも入るのが大変でしたから、「大学=それだけで高学歴」だったわけですが、今はそうではないですよね。 >Fラン大学みたいに定員割れしているところもたくさんあるわけで。 > そうなると大卒のなかでも偏差値の高い大学や研究成果を挙げている大学にいる学生を高学歴と呼ぶようになるのは当然のことなのではないでしょうか。 >学歴はいいものなのか、悪いものなのか >――よく理解できました。 >また、より極端というか、高学歴は「大学院から」みたいな意見についてはどう思われますか? >びーやま:言いたいことはすごくわかりますが、さすがにやりすぎかなと思います。 >まだ大学院進学は大多数とは言えないですからね。 > ただ、これだけ大学に入りやすくなっているかつ、大卒も多いとなると、数十年後には大学院卒が高学歴という時代が来る可能性もゼロではないのかなと思います。 >――ありがとうございます。「学歴」そのものについては良し悪し含めてどう思われますか? >びーやま:僕はいいものだと思います。
我が国においては人間序列の指標ですね。高等教育の成果とは関係ないですね。
> 誰がなんと言おうが、学歴はその人がちゃんと勉強して手に入れた証なわけですから、悪いものでは絶対にありません。
そうですね。しかし、人間序列の判定手段として利用されるところが良くないところですね。
> 加えて、「指定校の学歴は意味ない!」とか「付属校からの持ち上がりだと」とかいう人もいますが、別にルールを破っているわけでもないですし、それも含めての学歴かなと。
それは迷信の様なものですね。判断に根拠がない。
> しかも、今の世の中での学歴の扱われ方って、低学歴だからマイナスってわけじゃないですよね。 >別に学歴がなくたって世の中では活躍できるわけですし、中途採用などで大企業に入る人も山ほどいるわけです。 > そう考えると、「学歴がある人はプラスです。 >でもない人もマイナスはしません」という運用なので、いいんじゃないかと。
人間序列は比較の問題ですからね。どんなにつまらない比較でも下はいつも損。
>――なるほど。 >「得するだけ」というところがポイントなんですね。 >びーやま:そうです。 > 好きな学問を学べて、キャンパスライフも楽しんで、その上で社会的にも得ができるわけですから学歴はやはりいいものだなと。
学歴そのものは良いですね。でも相対学歴を使うのは良くない。人間差別の道具に使われています。
> なので、受験生にはあれこれ考えずにまずはシンプルに高学歴を目指してほしいです。
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>もちろん、「やりたいこと」のために学歴を捨てるのはありですが、「やりたいこと」と「学歴」を両立できる方法を最初は模索してほしいと思います。 (略)
学問は自分の好き好きでやればよい。好きな勉強は能率が上がる。しかし、人間序列の争いのために四苦八苦する勉強は止めた方が良い。人間の ‘品定め’ は個人主義の大敵である。 日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。自己実現の障害になる。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の機会獲得は難しい。
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