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2022年05月12日(木) 

 

 

>#5 私たちは人類の大転機にいる?   >金子 隆一  明治大学 政治経済学部 特任教授   >Facebook

 (略)

>少子高齢化は、人類の新しい文明のスタートかもしれない  >前回、年齢で一律に老後と決めるのはおかしいという話を述べました。  

 

個人的なばらつきを是認しますとそうなりますね。   

 

>でも、65歳まで40年以上働いて、もう休みたいと思う人もいるでしょう。 >もちろん、それもひとつの選択です。  >要は、自分の人生は自分で決めれば良いのです。   

 

そうですね。’自分の事は自分で決める’ ですね。      

 

>定年後、おそらく30年以上ある時間を、なにもしないで過ごすのも、自分のプロダクティビティを発揮し続けるのも、それを決めるのは、あなた自身なのです。   

 

そうですね。自己の意思決定が基本ですね。   

 

>社会制度は、一人ひとりのそうした多様な選択を実現できるよう支援することが理想なのです。   

 

そうですね。個人の多様性を認めることが理想ですね。

しかし残念なことに、日本人にはその基本となる意思というものがない。

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではないでしょう。リーダーシップに欠けている。    

 

>人生が長くなったということは、素晴らしいことです。>子どもが自立するまでは家族のために働いて、それを終えたら、今度は自分の好きなことを始める、というようなこともできるのです。   >人生70年くらいの時代の発想に縛られたままでいるから、年金が足りないとか、長寿はリスクなどと考えてしまうのです。  >でも、社会のパラダイム [paradigm] は必ず大きく転換します。  >私たち一人ひとりも新たな発想をもつべきです。   

 

そうですね。しかし、わが国人には世界観とか哲学といったものはありませんね。   

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

[教養] 現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。日本人は正解が一つしかない問題を作る。だから、いつも答えはご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 個人的な考えの違いは議論の対象になる。日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止して人は、つかみどころのない人間である。議論の余地がない。        

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

 

>とはいえ、高齢になれば健康が心配という人も多いでしょう。   >確かに、高齢者の健康度は平均的には急速に高まっていますが、個人差が大きいのも事実です。   

 

そうですね。個人差の克服が問題ですね。   

 

>しかし、弱ったり障害を持つようになったとき、それを支援する新しい技術も次々と開発されています。 >例えば、いま、メガネという技術があるおかげで、少々の近視や遠視なら、なんの不都合もなく社会で活動できます。  >それと同じように、身体機能の様々な不具合を補う技術が進歩して普及すれば、その不具合はもはや障害とは呼ばれないわけです。   

 

そうですね。私も年寄りで車を運転していますが、自家用車は屋根付き電動車椅子のような感じです。   

 

>そうした技術の開発を促進させるのも、私たち一人ひとりの、活動したいという意欲なのだと思います。   

 

そうですね。人工呼吸器に自己の生命を託して自己の活動している人もいますからね。       

 

>そうした発想は高齢者に限らず、なんらかの制約をもっているすべての人の社会参加を広げることにも繋がります。   

 

そうですね。パラリンピックのようなものですね。      

 

>すると、「高齢化社会」というのは、すべての人、一人ひとりの生き方を支援する未来社会を実現していくための、試金石なのだとも考えられます。   

 

そうですね。希望に満ちた未来社会の幕開けですね。健康寿命の延長になりますね。          

 

>歴史を振り返ると、人類は、狩猟採集、農耕、産業革命など、幾度かの大転機にともなって新たな文明を築いてきました。 >少子高齢化も、人類が辿る必然の大転機なのかもしれません。  

 

少子高齢化により我が地球の人口爆発を防げますね。  

 

>幸か不幸か、その突破口に日本が最初にたどり着いています。  

 

日本人の知恵が役立つ世界にたどり着きましたね。   

 

>日本がこれからつくっていく社会の形が、人類の新しい文明のスタートになっていくのかもしれません。>その形は、いまの私たち一人ひとりの考え方にゆだねられているのです。   

 

そうですね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy.          

 

>#1 少子高齢化による人口減少が問題なのはなぜ?   >#2 日本の家系の半分は消滅する?   >#3 社会保障制度は、人がつくるもの?   >#4 65歳は老後じゃない?   >#5 私たちは人類の大転機にいる?   >※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

 

 

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閲覧数25 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/05/12 13:43
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