>女性リーダーが活躍できない日本は世界に後れを取っている(三枝成彰) > 日刊ゲンダイDIGITAL 2022/05/21 06:30 (略) >プーチンの思考回路は20世紀のままらしい。 >手前勝手な理屈をもとに力で他国の主権を踏みにじるさまは、かつてのヒトラーを思わせる。 >時代錯誤も甚だしい。
そうですね。
>彼がよりどころとする武力による統治は、すでに過去の遺物となりつつある男性優位、マッチョイズムを体現しているように思える。 >己がすっかり時代に取り残されていることに、彼はいったい、いつ気づくのだろうか?
人生の終わりまで彼は気づくことが無いでしょうね。
> すでに世界は、武力を頼みとせず、女性や性的マイノリティーの人たちが自由に能力を発揮する新しい時代に入っているというのに──。
プーチンは宗教改革も無く、文芸復興も無く、産業革命も経験したことのない精神世界に住んでいる人物ですからね。西欧諸国とは比較になりませんね。
>先日、新たに就任したホワイトハウスの報道官はカリーヌ・ジャンピエール氏。 >アフリカ系女性として初の同職就任であり、性的マイノリティー(LGBTQ)を公言している初の報道官だ。 >氏はフランス領マルティニクでハイチ人のご両親のもとに生まれ、ニューヨークに移住。 >ニューヨーク工科大卒後にコロンビア大で修士学位を取得、オバマ氏の選挙スタッフとなった。 >その後、市議会勤務などを経てバイデン氏の選挙陣営に加わり、現在に至る。 >ひとつのアメリカンドリームの体現者だ。
そうですね。ジャパニーズドリームというものもあると良いですね。
>バイデン政権ではカマラ・ハリス副大統領をはじめ、主要ポスト27人中10人が女性だ。 >女性初の国家情報長官はアブリル・ヘインズ氏(元CIA副長官)。 >アフリカ系女性初の連邦最高裁判事はケタンジ・ブラウン・ジャクソン氏。 >また保健福祉省公衆衛生局次官補に選任されたレイチェル・レビン氏は同職で初のトランスジェンダーの女性だ。 >彼女は同省の士官部隊の大将にも選ばれた。 >さらに運輸長官のピート・ブティジェッジ氏は同性愛者を公言している。 >「アメリカらしさ=人種と多様性」がバイデン政権の売りではあるが、アメリカが多くの問題を抱えながらも、ときにこうした英断に踏み切るのを見ると「やはりすごい国だ」と、懐の深さに驚かされる。
さすがに人種の坩堝の実力ですね。
>先日当欄で、「世界幸福度ランキング」の上位10カ国中5カ国が女性政治家の治める国だと紹介した。 >G7諸国が14位(ドイツ)から31位(イタリア)までにランクされているのに対し、日本は54位。飛び抜けて“不幸”だ。
そうですね。日本は先進国としては異色の国ですね。
>先日NATOへの加盟申請を発表したフィンランドのマリン首相、デンマークのフレデリクセン首相(同国の君主はマルグレーテ女王)、アイスランドのヤコブスドッティル首相、スウェーデンのアンデション首相、ニュージーランドのアーダーン首相が、GDPや社会的支援・健康寿命・個人の自由度などから見た“幸福度”の高い国々のリーダーなのだ。
我が国では女性首相の話は聞いたことがありませんね。
>欧州各国の現役閣僚にも女性は多い。 >イギリスのパテル内相、トラス外相、フランスのボルヌ新首相、ドイツのメルケル前首相、フェーザー内相、ベーアボック外相、ランブレヒト国防相、レムケ環境相、シュルツェ経済協力開発相、イタリアのラモルジェーゼ内相、カルタビア法相、メッサ大学研究相、ジェルミーニ自治相らが活躍中だ。 >台湾の蔡英文総統やIT担当政務委員のオードリー・タン氏、香港の林鄭月娥行政長官ら、アジアでも女性やトランスジェンダーの人たちが要職にある。
人口の半数は女ですからね。政治にも女の活用を考えるべきですね。
>それに対して日本の政治の現状は、昨年の衆院選で当選した議員465人のうち女性は45人で9.7%だ。 >フランスでは立候補者を男女同数にする「パリテ法」が2000年に施行された。
立候補者の数を男女同数にすれば、わが国にも女性の政治家が増えるかもしれませんね。
>世界の約130カ国が取り入れている「クオータ制」は、議員数の一定の割合を女性候補者に充てるものだが、いずれも日本にはない。
‘パリテ法’ も ‘クオータ制’ もわが国で施行されないのは、日本人は女性の政治家の活躍を望んでいないからでしょうね。
>確かに既存の政治家経験者が並み居る地盤で、何の後ろ盾もない女性が立候補しても、単身で勝つことは難しいのが現実だ。 >だが世界の政治の潮流は確実に性差のない開かれた方向に向かっている。 >男性優位の時代につくられた社会制度が硬直して古くなるなか、性別やバックグラウンドにかかわりなく新しい発想を持った人が政治に参画できる仕組みをつくることが日本の急務だと思う。
そうですね。しかし、日本人は思考を停止していますからね。新しい発想を持って政治の仕組みをつくることは難しいでしょうね。
>ことは単純ではない。
そうですね。根が深いですね。
>だが、“政治屋”ではない人たちが政治に関わるチャンスを与えられれば、社会の新陳代謝が促され、この国が生まれ変わることも夢ではなくなるだろう。
そうですね。処世術に長けた人は政治家になりますね。無哲学・能天気な人はノンポリ・政治音痴にとどまっていますね。自己の政治哲学を持った人はほとんど見当たりませんね。 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) ‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’ (ウスビ・サコ)
>マッチョはもう、必要ない。
政争を体格で争う時代はもう過ぎましたね。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。 日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>(三枝成彰/作曲家)
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