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2022年06月25日(土) 

 

 

>東洋経済オンライン   >誰も本心では信じていない民意に全てを委ねる訳 「国民の意思」がデモクラシーを崩壊させる   > 佐伯 啓思 2022/06/23 10:30  

(略)

>7月10日には参議院選挙の投開票が行われる。 >選挙とは「民意」を問うものであり、民主主義の根幹をなす制度といわれる。 >だが、今日の不安定な政治や、国民の政治への無関心は、政治家やメディアが、なんら実体のない「民意」を持ち上げることによって、もたらされているのではないか。   

 

日本人は無哲学・能天気であるからノンポリ・政治音痴になっている。だから、政治には無関心である。だから我が国の政治には実体がない。      

 

>ウクライナ危機、コロナ禍、グローバル経済の矛盾、民主主義の危うさなど、現代社会の重要な問題について、思想家・佐伯啓思氏が文明論的視座から論じた新刊『さらば、欲望 資本主義の隘路をどう脱出するか』(幻冬舎新書)から一部抜粋してお届けする。   

>民意という亡霊がうろついている  >「ヨーロッパをひとつの亡霊がうろついている、共産主義という亡霊が」というよく知られたマルクスの言葉にならえば、今日、「日本をひとつの亡霊がうろついている、民意という亡霊が」といってもさしつかえなかろう。   

 

わが国民は政治に無関心ですから、悲惨な政治の結果にも責任も感じていませんね。   

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’   (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)  

 

>もちろん、マルクスとはまったく違った意味である。  >亡霊がやがて世界を支配することを期待したマルクスとは逆に、今日、われわれにとりついている亡霊は、われわれを破滅へと導くものかもしれない。   

 

そうですね。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)         

 

>ここで亡霊という比喩が多少意味をもつのは、それが、実体でもないが、かといってまったくの幻覚でもない、という点にあろう。>確かな存在でもないが、まったく存在しないというわけでもない。   

 

‘ありそうで、なさそうで’といったところですね。‘いかにも、、、、らしい’といった雰囲気ですかね。日本人の場合には、非現実 (考え)の内容を文章にする構文がないので、考え(非現実)の内容は哲学にはならずして妄想・空想の類になりますね。  

おかげさまで、わが国の高等教育の方はさっぱりだめですが、漫画・アニメの世界では大国になりましたね。           

 

>有と無の間を揺れ動く、この不確かであやふやなものがわれわれの社会に憑依(ハウント)している。>憑依されたものは、「ミンイ、ミンイ」と騒ぐが、それが何を意味しているのかは誰もわからない。   

 

気分・雰囲気にもとずく掛け声でしょうね。歌詠みのようなものか。 論理に責任を持つものはどこにもいないでしょうね。       

 

>「ミンイ」では言葉の重みにかけるので、「国民の意思」と政治学風に言い換えても事態は変わらない。  >にもかかわらず、新聞、テレビ等のマスメディアを通して、連日、この言葉によって視覚聴覚を刺激されておれば、いつのまにか、「民意」やら「国民の意思」なるものが本当に臨在しているかのように思われてくる。   

 

そうですね。その意思のことであるが、日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。  

   

>姿形をもたない不確かなものを、あたかもそこにあるかのように捉えること、すなわち評論家の山本七平のいう「臨在感的把握」が生み出される。 >「亡霊」というより「言霊(ことだま)」とでもいうべきであろう。 >「民意」や「国民の意思」という言葉が、何かある価値をもってひとつの規範となる。  >言葉の「霊」がわれわれを支配する。 >「言霊的臨在」である。  

 

なんだか頼りないものですね。漫画・アニメの世界にいるような感じですね。       

 

>それが、この21世紀の、かつてない科学やデータの時代、両方合わせてデータ・サイエンス万能の時代にあっても、決定的な役割を果たしている。 >脳科学がすべてを解明できるかのように喧伝される時代に、「言霊」がわれわれの脳を占領するという不可思議な霊的憑依が生じているのだ。 >もちろん、言霊的憑依現象は「民意」だけではない。 >今日、次々と新手のミニ言霊が浮かびあらわれる。  

 

日本語の環境は英米流高等教育の成り立ちにくい環境を作っていますね。非現実の文章がなくては意味もなく非現実(考え)の体系を構築できませんね。   

 

>「多様性」「LGBT」「データ」「実証」「可視化」「説明責任」「SDGs」「クリーンエネルギー」「脱炭素化」「改革」、それに依然として「経済成長」。 >少し前までは、「平和」「平等」「民主」「人権」が圧倒的に憑依能力をもっていた。  >その意味するものが不透明であるがゆえに、引用者の都合のよいように解釈され、一定の気分を伴って社会の空気を支配する。   

 

日本では気分・雰囲気の問題が重要ですね。独りよがりということでしょうかね。      

 

>ここで私が論じてみたいのは、もっぱら「民意」、つまり「国民の意思」である。 >この、有るとはいえないが、無いともいえない「憑依的存在(憑在)」が、どれほどデモクラシーと呼ばれる今日の政治を不安定化しているかが私には気になるからだ。   

 

お察し申し上げます。 日本人に哲学がなければ、その政治家には政治哲学がない。だから、その政治も不安定ですね。   

 

>「民意」の便利使いをするメディア  >一例をあげれば、2021年10月末の総選挙で、自民党も立憲民主党も議席を減らした。  >そこでたとえば朝日新聞は社説で次のようなことを書いていた。 >「甘利幹事長の小選挙区での落選は、自民一強体制への批判という民意の表明である」と。 >また、毎日新聞の論説には次のようにある。 >「与党も野党も決定的に勝たせない、というのが民意である」と。 >どう見ても恣意的というほかない。 >「民意」の便利使いである。   

 

日本人は意思がないので、恣意を意思の代わりに使うことがありますね。便利使いの話どころではありませんね。これは危険きわまりない行為ですね。      

 

>自民党も立憲民主党も確かに議席は減らしたものの、その意味はまったく違っていた。 >共産党との共闘を企図した立民は、明らかに敗北した。  >自民の議席減は、前回選挙での野党の大混乱に起因する地滑り的勝利から 通常水準に戻っただけで、それでも261議席の絶対安定多数を確保した。 >これは十分に勝利である。 >しかも小選挙区の当落は、この選挙制度と選挙戦略によるところが大きい。 

 

そうでしょうね。   

  

>にもかかわらず、どうして「民意」を持ち出したいのだろうか。 >理由ははっきりしている。  >そこに「国民の意思」というものを読み込みたいのだ。 >「意思」とはやっかいな言葉である。 >強い信念や信条がそこには示されており、確固たるものが暗示されている。  

 

そうですね。日本人には意思がないのですから。日本人は恣意を鍛えて意地・根性・大和魂として利用していますね。   

 

>その結果、「国民の意思」を人質にとれば、正当性が生まれる。 >朝日は、「民意」という言葉を無理やりに人質にとって、「自民一強体制」への批判を正当化しようとし、毎日は与党の勝利を認めまいとする。  >自らの主張を「民意」によって正当化しようとしているだけである。   

 

そうですね。無哲学・能天気ですね。     

 

>「民意」にすり寄る政治家  >もちろん、これは朝日、毎日という反自民系の新聞だけのことではない。 >与党支持派は、この結果を、自民による政治の安定こそは「民意」であるというであろう。  >ここでもまた「民意」を持ち出す。  >選挙は「民意」を問うものだということになっている。 >さして主張のない候補者に限って、自分こそは「民意を国会に届ける」と選挙で訴え、新たに選出された首相は、これまた必ず「民意を大事にする」というのが通例になっている。 

 

さしたる自己主張のない議員は、その得票数が存在理由の全てですからね。    

  

>「民の声は天の声」といわんばかりに、政治家は「民意」にすり寄る。 >まさしく言霊憑依である。 

 

個人主義のないお国柄ですね。 哲学が疎外されています。    

   

>しかし、「民意」とはいったい何なのであろうか。 >なぜ誰もそれを問おうとはしないのか。

 

民意とは選挙民の信託ですね。    

 

>それも理由ははっきりしている。 >まともな政治家が本心から「民意」を信じているなどとはまず考えられまい。  

 

自己の政治哲学がないからですね。    

 

>まともな政治家であれば、「民意」などというよりも前に、世界や日本社会についての自らの見解や信念があるだろう。   

 

そうですね。だが、日本人には政治哲学がない。  

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

 

>また、マスメディアの政治部の記者やジャーナリストがこれまた本心から「民意」を正当なものと信じているとも思えない。  >その危うさなど、普段からいやというほど見聞きしているだろう。  >政治家やジャーナリストがもし本当に民意など信じているとすれば、われわれは、とんでもなくナイーブで子供じみた情報環境に置かれているということであり、それこそが恐るべき事態というほかない。   

 

日本人はまだ12歳の少年ですからね。  

 

>ナチスは民意の支持を得て政権をとった  >にもかかわらず、われわれは「民意」なるものを擬装し、その前にぬかずき、そこで思考を停止する。 >どうしてそんなことをするのか。 >これも答えは簡単で、民意とは何かを問うことはまさしくデモクラシーとは何かと問うことであり、民意の正当性に疑問符を突き付けることは、デモクラシーの正当性を疑うことになるからである。

 

チャーチルの名言

‘民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。

 

>政治家もマスメディアも、まさしく、デモクラシーという土俵の上で仕事をしている。 >当然、この土俵を疑うわけにはいかない。 >土俵が崩れれば、彼らの存在意義もなくなってしまう。 >どんなりっぱな金魚でも金魚鉢が壊れてしまえば生きることはできない。 >だから彼らは、自らが信じてもいない「民意」なるものを、信じたことにするほかないであろう。 >この擬装によって、デモクラシーを成立させようとするのである。  

 

チャーチルの立場と同じですね。   

 

>ところが「民意」なる言葉を絶対化してしまったために、逆に、デモクラシーまでもが崩壊することもありうる。  

 

権力者はともすれば腐敗しがちですからね。有権者のたえざる監視の目が必要ですね。      

 

>わかりやすい例をあげれば、1930年代のドイツでナチスは圧倒的な「民意」の支持を受けて政権をとった。 >それがデモクラシーを崩壊させたのである。 

 

そうですね。政治の丸投げは極めて危険な行いですね。   

  

>われわれはナチスからも「民意」の危うさを学んだはずであり、それを無条件に信じることなどできるはずはない。 >にもかかわらずそれを手放すこともできない。  >こういう奇妙なディレンマに陥っている。 

 

そうですね。これが現在あるところの最良の政治形態ですね。    

  

>本心では信じていない民意にすべてを委ねるほかないのであり、それが、今日の、政治への不信、政治の不安定、政治への無関心、政治のエンタメ化の核心にある。   

 

そうですね。自己の哲学を持たない政治家を排除することが大切ですね。      

 

>とすれば、これは「民意が政治を崩壊させる」というべき深刻な事態ではなかろうか。   

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。     

 

 

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閲覧数24 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/06/25 18:28
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