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2022年09月18日(日) 

 

 

>現代ビジネス   >現代哲学は死に瀕している——相対主義を克服しなければならない理由 『新・哲学入門』マニフェスト   > 竹田 青嗣 2022/09/16 06:00  

 (略)   

>現代思想の行きづまりを打破し、根本的に刷新する——。  >哲学者・竹田青嗣氏による、哲学のまったく「新しい入門書」であるとともに、「新しい哲学」の扉を開くための書、『新・哲学入門』より、同書の目的を宣言する「マニフェスト」をお届けします。   

>哲学は死に瀕している   

>*二一世紀の現在、哲学はその本質を見失い、自壊し、死に瀕している。 >なぜか。  >哲学の本義は普遍認識を目がける普遍洞察の方法にある。 >だが、現代哲学では、稀な例外を除いて、哲学の根本方法を否定する相対主義哲学がその舞台を席巻してきた。 >普遍認識の否定、これが相対主義哲学の旗印である。   

 

確立された普遍認識は個人主義に反していますね。個人認識は絶えず他の個人認識に置き換えられますね。これは、科学哲学と同じで日進月歩です。      

 

>それは現代の流行思想だったが、現代哲学の最大の病でもあった。  >だが、哲学の偉大な達成は、相対主義が克服された時代においてのみ現われる。 >いまわれわれは、哲学の概念と像を根本的に刷新しなければならず、そのため、根本的に新しい哲学を必要としている。   

 

そうでしょうね。普遍認識は難しいですね。      

 

>本書は、まさしくこの意味で、哲学についてのまったく「新しい入門書」であるとともに、「新しい哲学」の扉を開くための書である。 >*哲学とは何かについてさまざまな考えがある。   

>哲学とは、世界と人間の存在の意味についてどこまでも考え続ける問いである。   

 

それは我々がつい考えてしまう命題ですね。   

 

>あるいは、哲学は概念の創造の営みであり、そのことで既成の世界像を刷新せねばならない。

 

世界観は人それぞれでしようね。   

 

>また、哲学は一切の自明となった考えを徹底的に疑う思考である、等々。   

 

再考は常に必要ですね。  

 

>しかしこれらはどれも、不徹底かつ生半可の思考にすぎない。   

>「原理」の方法としての哲学   

>*哲学の端的な定義は、以下である。 >哲学は言葉による「世界説明」である。   

 

そうですね。   

 

>だが哲学は世界の「真理」を捉えるのではない。   

 

そうですね。   

 

>言葉は真理を捉えることはできず、ただ「世界の絵」を描くことができるだけだ。  

 

日本語は写生画の言葉ですね。現実のみを反映しますね。非現実 (考え) の内容の表現は無理ですね。         

 

>哲学は、「普遍洞察」という独自の方法によって世界を説明する。  >この方法が哲学を普遍的な世界説明とする。   

 

普遍的な世界は非現実の世界ですね。矛盾を含まない文は全て正しい考えを表していますね。非現実の内容は人様々になりますね。        

個人の考えにより多数の者を支配しようとするやり方は、権威主義者の執る道ですね。権威は個人の自由を妨げることになりますね。      

 

>そもそも人間だけが言葉によって「世界説明」を行なう。   

 

そうですね。人間のみが言語を使いますね。      

 

>そして、古来人間は、二種類の「世界説明」の方法をもった。 >まず宗教が現われ「物語」によって世界を説明した。   

 

それは天地創造の物語のようなものですね。科学哲学による説明とは関係ありませんね。      

 

>その後に哲学が登場し、はじめて「普遍洞察」の方法を生み出した。   

 

個人の普遍は多数の普遍にはなり切れませんね。   

 

>このことで哲学は、「原理」の方法となった。  >*「原理」とは何か。 >はじめに問いが示されるが、一切の問いに普遍的な認識が成立するわけではない。 >「原理」の思考は、この問いに、誰にとっても妥当する説明方式が可能かどうかを追いつめる。 >そのことで、絶対的な認識(真理)ではなく、万人にとっての共通了解となりうる普遍的な世界説明を創出する方法となる。  

 

そうですね。共通了解ですね。人々は是々非々で応じるでしょうからね。  

 

>哲学の「原理」の方法は、哲学のテーブルのリレーによってのみ可能となる。 >個々の哲学者の達成は、この原理のリレーのうちではじめて意味をもつ。  >一つの哲学の卓越は、その原理がそれまでの哲学のリレーによって達成されてきた原理を、もう一歩推し進めることができるか否かにかかっている。  >時代の中でどれほど注目される哲学の言説も、新しい「原理」をもっているのでなければ、やがて必ず消える。  

 

そうですね。個人の哲学は日進月歩ですね。   

 

>本質的な哲学だけが新しい「原理」の創出の意志をもつ。  >「原理」を捉えることではじめて哲学は、現実に対抗しうる言葉となり、人間と社会の本質的な可能性となる。     

 

大切なのは原理の研究ですね。   

 

>相対主義哲学の過ち   >*宗教と哲学は人間が生み出した二つの「世界説明」を代表するが、それぞれ功罪をもふるつ。  >宗教の「物語」は、人間と社会についての時間の篩いにかけられた深い智恵の蓄積である。 >なにより人々の生の苦しみを癒す力がある。  >だが、宗教の「物語」は、共同体の枠組みを超えることができず、その境界線でコンフリクトを生じる。  

 

そうですね。物語は境界線を作りますね。境界線は民族問題に発展しますね。   

 

>哲学は「物語」を用いず、概念と論理を使用することによって普遍的な「世界説明」をめがける。  >しかし概念と論理の使用というこの方法が、哲学の大きな弱点となる。  >つまり、論理(理屈)を駆使して白を黒とも言いふせる詭弁的論法が現われる。

 

理論・理屈は世界の基準を示すことはありませんね。白黒は自分で自由に決めるものですね。      

 

>ここから、哲学に似た哲学の鬼子、「形而上学」(独断論)や「相対主義」(懐疑主義)哲学が現われるのである。  >*二〇世紀の哲学の主流となったのは、マルクス主義、分析哲学、そしてポストモダン思想だった。  >だがこれらはすべて、哲学の普遍洞察の方法を見失い、あるいは投げ捨ててしまった。 >それには理由がある。 >ヨーロッパの人々にとって大きな希望として始発した近代社会は、一九世紀から二〇世紀にかけてさまざまな矛盾を生み出した。  >とくにその経済システムである資本主義は、国家間を武力による激烈な闘争に巻き込んで二つの世界大戦という悲惨なカタストロフィにまで押しやった。  >人々は、これを近代社会に固有の矛盾と考え、その後ろ盾となった近代哲学を否定して新しい哲学・思想を模索した。 >現代哲学が近代哲学の普遍洞察の方法を危険なものとして否定し、投げ捨てたのはそのためである。 >こうして現代哲学には、独断論と相対主義の方法だけが残された。   

(略)   

>*こう言わねばならない。 >近代哲学が見出した「近代市民社会」の原理は、歴史上はじめて現われた、万人に自由を確保する「原理」だった(その理由はあとで示す)。 >それまでは、人類は絶対的支配のくびきのもとにあった。  

 

そうですね。権威主義者の横暴による統制の時代でしたね。      

 

>近代社会が生み出した矛盾は克服されねばならないが、それは近代社会の「原理」の否定によってではなく、むしろこの原理からする近代社会の「現実」の批判によってでなければならなかった。   

 

そうですね。   

 

>この原理を捨てると絶対支配の社会が立ち戻るだけだからだ。   

 

原理のない社会は権威主義者の絶対支配ですね。   

 

>だが現代哲学(とくに相対主義哲学)は、近代社会の「原理」と「現実」とを区別できず、普遍洞察の方法を禁じ手にして、いまあるどんな権威や制度も正当性をもたないという、相対的論理による現実批判の方法をとった。  >しかし、相対主義は一切を批判するが、現実に対抗する論理を生み出すことはできない。   

 

‘あれではいけない・これではだめだ’ という態度のことか。この種の主張の中には自己が無い。   

 

>なぜなら、それは現実を変える条件を「原理」として見出す方法をもたず、さらに、その論理を徹底するなら、すべては力が決するという「現実論理」に帰着する。   

 

強権政治ですね。    

 

>そのことで必ず「現実」に屈服するほかないからである。   

 

‘力は正義’ ですね。   

 

>*相対主義哲学は、哲学の歴史のなかで、独断論的イデオロギーが人々にとって圧制的となるとき、つねにこれを相対化し批判するという重要な役割を果たしてきた。  >現代の相対主義哲学もその役割をよく担ったことは認めねばならない。   

 

そうですね。   

 

>しかし、この相対主義の役割はいまでは無意味なもの、むしろ有害なものになっている。  >いま哲学は、単なる批判的言説であることを超えて、時代の矛盾を克服するための可能性の原理を見出すという課題に向き合うべきだからだ。   

 

原理の探求は建設的態度ですね。   

 

>何のための哲学か   

>*哲学は普遍的な世界説明を創り出す試みである。 >だがそもそも何のために。  

 

目的などなくても自然に考えてしまう一人でに出てくるような命題ですね。つまり、思索は人間の本性に基づくものでしょうね。      

 

>こう考えねばならない。  >人間だけが言葉によって世界を創る。  >フリードリヒ・ニーチェがいったように、千の民族は千の「神」をもつ。  >言いかえれば、千の民族が千の世界説明をもつ。 >なぜ人間にとって普遍的な世界説明が必要とされるのか。  >これに対する最後の答えは以下である。   >「普遍暴力の縮減」のために。 >またそのことによって、すべての人間の共存とエロス的共生の条件を作り出すために、と。   

 

我々は暴力よりも平和を好みますね。人類にとって、共存とエロスは大切ですね。    

 

>*哲学は、いまもう一度、普遍的な「世界説明」の創出の営みとして、普遍洞察の方法として再生されねばならない。   

 

何処まで普遍になるのか、全てが普遍になることはないでしょうね。   

 

>つまり、全く新しい哲学の像が示されねばならないが、この課題は、われわれの時代の人間と社会の可能性にとって必須のものである。   

 

新しい哲学の内容は、最大多数の最大幸福を目指すものになるのかな。   

 

>これを本書のマニフェストとしたい。   

 

 

.

 

 

 

 


閲覧数12 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/09/18 22:13
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