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2022年10月01日(土) 

 

>ダイヤモンド・オンライン   >名著から読み解く「日本人の特徴」   > 小室直樹 2022/10/01 06:00  

(略)   

>1976年の初版版発刊以来、日本社会学の教科書として多くの読者に愛されていた小室直樹氏による『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』が2022年に新装版として復刊された。   

>社会学者・宮台真司氏「先進国唯一の経済停滞や、コロナ禍の無策や、統一教会と政治の癒着など、数多の惨状を目撃した我々は、今こそ本書を読むべきだ。   

>半世紀前に「理由」が書かれているからだ。」と絶賛されている。   

>40年以上前に世に送り出された書籍にもかかわらず、今でも色褪せることのない1冊は、現代にも通じる日本社会の問題を指摘しており、まさに予言の書となっている。   

 

そうですね。日本人は相変わらず不動の姿勢ですからね。   

 

>『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』では、社会学者・橋爪大三郎氏による解説に加え、1982年に発刊された【増補版】に掲載された「私の新戦争論」も収録されている。   

>本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、一部編集をして掲載しています。  >なお掲載している内容は1976年に書かれたものです。   

>日本人の社会科学オンチ   

> 戦後日本人の思考様式の基礎をなしている神話の論理構造は次のようなものであると思われる。   

>すなわち、①戦前は軍国主義であった、②軍国主義は正しくない、③ゆえに、われわれは破局を迎えた。   

>そして、①現在は軍国主義ではない、②ゆえに、現在は正しい、③したがって、現在軍国主義のような破局を迎えることはありえない。   

> そして、この場合、「軍国主義」の対蹠物として「デモクラシー」がくるのである。 > しかし、いまやこの神話の効力が失われつつある。  

 

そうですね。  

 

>その理由は、このような看板の塗り替えを行っても、日本人の行動様式、思考様式の基本型は変わっておらず、構造的に同型であるからである。   

>したがって、戦前軍国主義によって破局を迎えたとすれば、現在といえども、その危険性は去っていないのである。   

 

そうでしようね。日本人の日本語による思考形式に変化はありませんからね。       

 

> 一般に、戦前は軍国主義であった、といわれる。 >はたしてそうであろうか。  >そのまえに、まず「軍国主義とは何か」という問題が起こるが、これについてはまだ学問的に確定された定義はない。   

 

軍国主義は ‘Militarism’ (軍備拡張主義) の日本語訳でしょうね。  

 

>しかし、ごく常識的に考えて、軍国主義とは、国家の機能をあげて軍事目的に奉仕せしめようとする主義のことである、と考えれば、戦前の日本は、アメリカやドイツやソ連などに比べて、はるかに軍国主義的ではなかったのである。   

 

そうですね。彼らの国には ‘考える人’ がいるからですね。    

 

> 第二次世界大戦は総力戦である、といわれた。 >いかにもそのとおりであって、ひとたび大戦が生起するや、アメリカにおいては、物理学者や数学者はいうまでもなく、天文学者、心理学者から人類学者まで動員されて戦争目的に奉仕した。  >その結果、原爆やレーダーが開発されたのであったが、副産物として、後に学際的研究として社会科学に一種の革命を起こすことになる行動科学まで生まれた。  >このように、国家の機能をあげて軍国目的に奉仕せしめることこそ、真の意味における軍国主義ではないであろうか。  

 

彼等の国は知的な国ですね。   

 

> このようなことは、戦前の日本においては思いも及ばなかった。   

 

日本人は哲学と宗教に弱い民族ですからね。見ることのできる内容は本当のこと。できないものは嘘である。嘘を言ってはいけない。不自由を常と思えば不足なし。                

 

>自然科学の組織化が思うにまかせぬために、レーダーをはじめとする各種新兵器の開発に遅れをとり、このことが日本の大きな敗因の一つとなったことは、いまや周知であるが、所与の目的のための社会科学の組織化となると、日本の戦争指導者の夢想もなしえないことであった。   

 

日本人の社会科学は絵空事ですね。なぜならば、日本人は非現実の内容に辻褄の合わせ方を知らないから。問答無用ですね。日本人の想いは哲学に成らずして、空想・妄想になる。お陰様で、わが国は、漫画・アニメの大国になりました。       

 

>その結果、彼らは、現実の社会現象を科学的に分析してこれを合目的的に制御する能力を全く喪失し、新しい流動的な局面に接すると、右往左往するのみであって、策の出るところを知らなかった。  > 社会科学の貧困をもたらした文化的背景として、日本人の思考における非科学性がある。  

 

そうですね。日本語には現実の内容はあっても、非現実の内容はない。     

 

>ここに、非科学性とは、社会現象を科学的に思考する論理的能力の欠如をいう。   

 

科学的とは現実を直視して、自己の考え (科学哲学) を述べることである。    

 

>すなわち日本人は、最も有能で一見論理的能力を身につけたようにみえる人びとであっても、その思考様式は、たかだか技術的レヴェルにとどまり、全体的コンテクストにおける波及を考慮しつつ、社会現象を制御の対象として分析する能力を欠如している。   

 

そうですね。日本人には実学 (技術) はできても、哲学 (考え) はできませんね。わが国には人手不足はあっても、頭脳不足はありませんね。天下の秀才ばかりですから。       

 

>本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、再編集して掲載しています。   

 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。個人主義がない。

 

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

 

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

 

 

 

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閲覧数278 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/10/01 10:21
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