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2023年03月02日(木) 

 

>381717        脳が成長するのは「入力」より「出力」?!   >廣渕一志 ( 中年 福岡 技術者 )         23/02/01 PM07   >学習が進むのに大切なのは「入力」か「出力」か?   > 実は脳科学の点では明らかなようです。   

>東京大学・脳科学者の池谷裕二氏の『パパは脳研究者』を引用させて頂きます。    

>実は「入力」に効果がないことは確かだそうです。   

>繰り返し見返すことが学習に効果的だと思っていましたが・・・。   

>(以下抜粋引用です)   

>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   

>■脳が成長するのは「入力」より「出力」   

> 読むという「入力」より、自分で書くという「出力」を大事にすることは、脳科学の点からも、読んだり聞いたりする「入力」より、しやべったり書いたりする「出力」のほうが重要だということは、はっきりしています。   

> 例えば学校のテスト。   

>勉強をするときには、教科書や参考書を読むなど、知識を何度も叩き込む、つまり、繰り返し入力することを重視しがちです。  

 

そうですね。   

読書百遍義自ずから見 (あらわ) る。 (どんなに難しい書でも何度も繰り返して読めば、意味が自然とあきらかになる) 三国志・王粛伝   

 

>でも実は、入力訓練にはほぼ効果がありません。   

>むしろ、覚えたことを思い出すとか、模擬テストを解くといった、「出力」こそが重要です。   

>知識は、仮にきちんと脳に叩き込まれていても、必要なときにそれが出てこなかったら、外部から見れば「覚えていない」ことと同じです。   

>本番で思い出せなかったら、意味がありません。   

>だから、「思い出す」という出力訓練こそが大切なのです。   

> 勉強において一番重要なことは知識の「出力」。   

>これは脳研究者の間では有名な事実です。   

 

それは人間の創造力ですね。人類発展の源ですね。      

 

>ところが、「出力」の訓練は、意外と皆さんしていない。   

>どちらかと言えば、再読重視。   

 

詰め込み教育ですね。詰め込み教育は思考を停止している人たちの社会で序列競争の為に使われていますね。      

 

> 実際には、再読を繰り返しても、知識はほとんど定着しません。   

>これは直感に反するかもしれません。   

>なぜなら、本は1回読んだときより、2回読んだほうがスラスラと読め、よく理解できたような気がするからです。   

> おもしろい実験があります。本を読んでから1週間後に内容についての「想起テスト」を行うと、1回読んだときと、2回読んだときでは、なんと点数が変わらないのです。3回読んでも同じこと。   

> ただし、2回、3回と読み返すと、読み慣れはするので、確かに読むスピードが上がるのです。   

>そして、スラスラと読めるようになると、本人は「わかった!」ような気になる。   

>成長したような気分になるのです。   

 

それは馴れ合いですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>でも、実際には点数は変わらない。   

>覚えていないのです。   

> 実は、この「わかった」という心理こそが、学習の妨げとなっています。   

 

そうですね。学ぶことには謙虚な姿勢が必要である。

'私は、私が何も知らないということを知っている'。 (ソクラテス)     [無知の知] 'I know that I know nothing'.     

 

>「わかった」という感情は、爽快で心地よいものかもしれませんが、現実には、学習意欲を減らしてしまう悪しき作用があります。   

>なぜならば、わかった対象については「もう理解しているから、これ以上の勉強は必要ない」と判断してしまうからです。   

>「わかった」は知識欲減退と思考停止の元凶なのです。   

 

日本人の大人は学習しないと言われていますね。わが国では勉強は子供のするものと考えられていますね。生涯教育が必要ですね。      

 

> さらに言えば、「わかった」と本人が感じたとしても、そもそも本当に「理解しているのか」という根本的な問題も残っています。   

>「わかった気分」になっているだけで、実は「全くわかっていない」ことは珍しくありません。   

>学習において「わかった」は、百害あって一利なしです。   

 

そうですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)            

 

>(引用終わり)   

 

 

.

 

 

 

 

 


閲覧数59 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/03/02 14:41
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