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2023年03月17日(金) 

 

>ダイヤモンド・オンライン   >日本人の「意見表明が苦手」の克服法、イェール大学元助教授が伝授   >斉藤 淳 の意見 • 3 時間前   

>「意見表明が苦手」とされている日本人。   

>だが、米イェール大学元助教授の斉藤淳氏によれば、その点において日本人が過度に自虐的になる理由はないという。   

>その真意と、よい「思考」の持ち方について、斉藤氏の著書『アメリカの大学生が学んでいる本物の教養』(SB新書)より一部を抜粋・編集して紹介する。   

>意見をもつのが苦手になる    

>日本の教育の問題

> 日本人は一般的に意見をもつことも、意見を表明することも苦手とされています。   

 

そうですね。    

 

> なぜかといえばシンプルな話で、個々が意見をもちはじめると、管理しづらくなるからでしょう。   

>つまり一番は教育の問題です。   

>日本の子どもたちは「生徒を管理しやすいように」という教師側の都合により、意見をもったり、意見を表明したりする訓練を受ける機会に乏しいのです。   

 

そうですね。日本人は思考を停止していますからね。   

 

> 古来、水田稲作に勤しんできた農村共同体のなかで、日本人の価値規範が構築されてきたという背景も無視できないかもしれません。   

 

日本人には世界観がありませんからね。   

 

> 農村共同体では、周囲の人たちと和合しなくては田んぼに水を引くこともできなければ、田植え・収穫シーズンに助け合うこともできない。   

>まさに「和をもって貴しとなす」が死活問題でした。   

>とかく協調性が重んじられ、「人に迷惑をかけてはいけない」と教えられるのは、こうした社会的背景の影響も大きいでしょう。   

 

そうですね。    

 

> それは一面では日本人の尊い美徳といえます。   

>しかし、その反面、いわゆる「同調圧力」に抑圧されて、自由にものを考えたり、意見を表明したりできない日本人を量産してきたことは否めないのです。   

> 特に現代という時代にあって、たとえばビジネス、あるいは政治・経済について国際社会で交渉をまとめ上げる局面では、日本人同士では美徳として通用する価値観が不利に働いてしまうでしょう。   

 

日本人はノンポリ・政治音痴ですからね。    

 

>意見を出し合い、議論することでしか、交渉をまとめ上げることはできないからです。

> たとえばアメリカの小学校などでは、「Everybody is different(人はみな違う)」という教育が根付いています。

 

そうですね。人人により考えは違いますからね。   

 

>「それぞれが個性的な存在である」ということを幼いころから徹底的に教え込まれ、だからこそ「何が自分の個性なのか」を表現する訓練を受ける。   

>ことあるごとに「あなたはどう思うのか」と問うのが、アメリカの教育です。   

>横並び思想で覆われた日本の教育とはかなり様相が違います。   

 

そうですね。アメリカの教育は ‘他人の受け売りと後追い’ で成り立つ日本の教育とは違いますね。    

 

> こう言うと、日本の社会や教育を全否定しているように聞こえるかもしれませんが、それは本意ではありません。   

>「アメリカでは~」「ヨーロッパでは~」と、何かに付けて海外(特に欧米)を引き合いに出す「出羽守(でわのかみ)」は、私がもっとも軽蔑している、知性に欠ける態度の1つです。   

 

そうですね。自己の意思の無い人は、出羽守になるしかありませんね。    

 

>「Everybody is different」という教育が根付いており、私たちから見ると「自分の意見がはっきりしていて議論好き」というイメージが強いアメリカ人ですら、議論して合意に達するのは一苦労です。   

> たとえば大学の講義でいきなり議論の場に放り込まれた大学生が、みな、堂々と自分の意見を言えるわけではありません。   

>また最近では、ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)に挑むようなことはせず、波風を立てることを忌避する風潮も、学生の間には広がっているように思われます。

 

家内安全・商売繁盛ですか。   

 

> ビジネスや政治の舞台でも、場を和ませるためのアイスブレーキングを最初に入れたり、まず信頼関係を構築することに努めたりと、いろいろな試行錯誤をして初めて自由闊達な議論が可能になる。   

>この点に大した国際的な違いはありません。   

>「事実確認」だけのレポートでは 自分の意見は生まれない   

 

そうですね。事実は現実の内容であり、意見は非現実 (考え) に内容ですからね。   

 

> では改めて、「自分の頭で考え、自分なりの意見をもつ」ということについて考えていきましょう。   

> まず「意見」とは何でしょうか。   

>ひとことでいえば、それは「よき思考」の成果です。   

> この点で私が非常に口惜しく思っているのは、日本の大学で出されているレポート課題は、「事実確認をせよ」というものが大半なのではないか、ということです。   

 

そうですね。現実直視は大切ですからね。    

 

> というのも、レポートを書くことは本来、自分の頭で考え、自分なりの意見をもつ格好のトレーニングになるはずなのに、事実確認に終始していては、それがほとんど成り立たないからです。   

 

思考停止はダメですね。    

 

> 事実確認とは、いうまでもなく「こういうことがあり、その影響で、こういうことになりました」というように、起こったことを克明に書き記すことです。   

> 事実確認それ自体の重要性を否定するものではありませんが、事実確認自体で満足していては、その先に進むことができません。   

>何よりも事実確認を丁寧に行うことの価値や意味が分からないままで終わってしまいがちです。   

>「調べてまとめてみよう」という課題が一定の効果を発揮するのは、小学生の宿題まででしょう。    

> 大人になったら、一番重要なのは、事実を踏まえて「自分はどう考えるか」です。   

 

そうですね。   

 

>事実確認は本来、レポートを作成するために必要な最低限の準備であり、ものを考える土台に過ぎません。   

> それにしても、なぜ日本では、学生に「事実確認」をさせておしまいになりがちなのでしょうか。   

 

それは思考を停止しているからでしょう。これでは前に進めません。       

 

> おそらく、それは課題を出す側が「ポジション・テイキング=悪」と捉えているからだと私は見ています。   

> 意識的か無意識的なのかはわかりませんが、ある立場からの予断をもってものを考えたり、意見を言ったりすることを、よくないと思っている。   

>だから意見表明ではなく、誰から見ても中立的でいられる事実確認を学生に求めるのでしょう。   

 

そうでしょうね。イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

 

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

> 加えて、事実確認と違って意見は評価するのが大変だという、課題を出す側の手続き的な都合も関係しているのかもしれません。   

 

意見 (非現実の内容) において、あくまでも相手に正解を求めの立場は、個性の撲滅に繋がっていますね。   

 

> 事実確認は単純に「正誤」で採点しようと思えばできますが、意見表明は、「ロジカルであるか」「妥当性のある知識、情報に基づいているか」といった点で評価する必要があります。

 

そうですね。百人が百通りの正解を提示する場合も考えられますね。      

 

> つまり「私はこのように考えました」という答案には「正誤」の明確な基準がないため、採点するほうは機械的に作業できず、それなりに時間を割きながら考えなくてはいけないのです。

 

人間は ‘考える人’ (the thinking man) になりますね。    

 

> しかし、事実確認は思考ではありません。   

>思考でない以上、いくら事実確認をしても思考力は磨かれないし、その成果である自分の意見をもてるようにもなりません。   

 

そうですね。だから日本人は他人の受け売りと後追いに熱中するようになりますね。   

 

> つまり自分の頭で考え、意見をもてるようになるには、「間違えている可能性」はいったん置いて、ポジション・テイキングをしてみること。   

>まず1つのポジションに立ってみないことには、何も始まらないわけです。   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

 

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

 

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

 

> ポジション・テイキングは思考の終着点ではなく、出発点と捉えるといいでしょう。   

>自分の意見をつくる   

>基本のトレーニング法   

> ひょっとしたら日本人は、意見を形成するトレーニング機会に乏しいぶん、意見をもつこと自体を、何か大きなことだと構えている人が多いのではないでしょうか。   

>「意見に対する批判」を「人格(存在)否定」と捉えがちな精神的土壌があるために、自分が意見を言うことで自分が傷ついたり、誰かを傷つけたりすることを、過度に恐れているようにも思えます。   

> いずれにせよ、もっと柔軟に考えていいのです。   

 

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.      

 

> ある1つの意見をもったら、生涯、それを貫かなくてはいけないわけではありません。   

> たとえば東日本大震災での福島第一原発事故の直後には「反原発」の立場をとっていた人が、ロシアによるウクライナ侵攻の影響で、世界的にエネルギー価格が高騰するなか、「原発再稼働賛成」の立場に回ったとします。   

> これは、まったく不誠実でも理不尽でもないと考えます。   

>判断基準があれば、状況の変化に応じて、あるいは新たに得た知識や情報をもとに意見は変わって当然なのです。   

 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)   

 

> また、私たちは、幸いにして言論の自由が憲法によって保障されている国に住んでいます。   

>世界には言論統制が激しい国もあるなか、そんな恵まれた環境に感謝しつつ、もっと自由にものを考え、意見を表明してもいいのではないでしょうか。   

 

そうですね。    

 

> 自分は自分です。そして他人は他人です。もちろん誹謗中傷は論外ですが、自分の意見が誰かを傷つけるかもしれないなどと気にする必要もないでしょう。

> 意見をもつことをもっと柔軟に考えていいといったのは、こういうことです。   

> そのときどきに自分なりに一生懸命考えて、「今はこう思っている」という意見をもてること自体に価値があると考えてください。   

>口に出すことに抵抗があるのなら、とりあえずメモ帳などに箇条書きで書き出してみるだけでもかまいません。    

>自分と正反対の意見にも理由付けをしてみる   

> では実際、意見形成できるようになるには、どうしたらいいでしょうか。   

> 先ほど、まず1つの立場に立ってみないことには、何も始まらないと述べました。   

> ただし、このポジション・テイキングは「なんとなく」ではいけません。   

>「なんか嫌だな」「なんかいいな」という直感だけでは、何も考えていないのと同じです。   

> 自分の感覚を無視しようということではありません。   

>実際、感覚が思考の出発点になることもあります。   

> しかし、あくまでも意見とは、知識や情報に裏付けられた思考に基づくべきもの。   

>「なんとなく、これが正しい気がする」といった感覚的なポジション・テイクは、意見といえないのです。   

 

そうですね。気分・雰囲気は意見ではありませんね。      

照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜(づきよ)にしく物ぞなき(大江千里『新古今集』巻一・春上・五五)

<意味>さやかに照るのでもなく、といって全く曇ってしまうのでもない、春の夜のおぼろにかすむ月の美しさに及ぶものはない。  

 

> そこで、自分の意見をつくるトレーニングとして、おすすめしたいことが2つあります。   

> 1つは、自分が正しいと考えることと、その正反対の意見の両方に理由付けをしてみること。   

> たとえば、「労働力確保のための移民の受け入れ」「原発再稼働」などの社会的課題について考えるとき、「賛成派の理由は何だろう」「反対派の理由は何だろう」と考えてみる。   

>だいたい3つも理由を挙げることができれば、自分なりにポジション・テイクできるはずです。   

> いわば両方の主張を自分のなかで戦わせる「脳内ディベート」をすることが、いずれかのポジションを選択して自分の意見を明確にする練習になるというわけです。

> また、ここで挙げた理由付けが、後から再考する際の検討材料にもなります。   

>感覚的なポジション・テイキングをしていると、再考しようにも検討できる材料がないので、思考を発展させることができないのです。

> そしてもう1つは、社会的課題について考える際に、まず信頼できる言論空間から、主だった主張を集めてくることです。   

> すでにどのような議論が行われてきたかということを把握するとともに、それらの議論で見落とされていることはないか、エビデンスが欠けているところはないかをチェックしながら、自分なりに考えてみる。   

>メモなども駆使して、読んだこと、考えたことの痕跡も残しましょう。   

> これも、自分の意見をつくる非常によいトレーニングになります。   

> 繰り返しになりますが、こうして形成された意見は、思考の終着点ではありません。   

> いったん意見をもった時点で「自分なりの正解は出せた、以上」と思考停止するのではなく、引き続き考えていく。   

>現時点の意見は、より筋のいい意見を醸成していくための出発点、あるいは1つの通過点に過ぎません。   

 

そうですね。  

 

 

.

 

 

 

 

 


閲覧数16 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/03/17 11:11
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