>なぜ日本人はいくら勉強しても英語を話せないのか…養老孟司が考える「日本の学校教育はココがおかしい」 >養老 孟司,藻谷 浩介 の意見 • 4 時間前 >日本の学校教育はどこに問題があるのか。 >解剖学者の養老孟司さんは「子供を椅子に座らせ、暗記で知識を詰め込む教育はもうやめたほうがいい」という。 >エコノミストの藻谷浩介さんとの対談を収録した新刊『日本の進む道 成長とは何だったのか』(毎日新聞出版)から一部を紹介する――。 (略) >日本の学校教育がハマった「個性」の落とし穴 >【藻谷】ところで先生は、日本の学校教育そのものはどうご覧になっていますか。 >【養老】教育という言葉の意味にもよりますが、日本は「倣う」とか「真似する」とか「顰に倣う」というように、「学ぶ」より「倣う」ことに重きを置いてきました。
我が国の学校教育は、他人の受け売りと後追いの練習をさせていましたね。
>古典芸能の教育が典型的ですが、師匠のやるようにやれということになっています。
日本の文化には形があって、内容が無い。教育は ’人の振り見て我がふり直せ’ ですね。
>言い方を変えれば、人真似を突き詰めると最後はオリジナルになるしかないという考え方があるわけです。 >徹底的に師匠の真似をしていくと、どこかで真似できないところに出る。 >それが師匠の個性であり、弟子の個性でもあるという考え方です。 >しかし、戦後はずっと、そういう考え方は「封建的だ」という批判があり、「封建的でなぜ悪いんだ」とは言い返せませんでした。
我が国には形式しかありませんからね。 生まれた時には宮参り、結婚式は教会で挙げる、死んだ時には葬式仏教の厄介になる。全ては最高の気分・雰囲気を選んだことになる。日本の文化には形式があって、内容が無い。だから、内容を考える外国人にとっては驚きである。日本人は内容が無いだけ余計に形式に拘ることになる。日本人の形式を変えるのは難しい。だから、日本人は保守主義になっている。
>【藻谷】その反動で「個性」を言い始めたら、子供たちが「普通ではいけない」「人と同じではいけない」と無理をして「個性」を出そうとするようになったりしてますね。 >【養老】中高生に「個性」なんてそれほどありませんよ。 >昔、ある学生に「誰も君の隣の人と間違えないだろう、それが君の『個性』なんだよ」と言ったことがありますが、個性はあるに決まっています。 >逆にいうと、「その人はその人である」という個性に対する信頼感が消えてしまったのでしょうね。
日本人は常に正解を求めていますね。何事もばらつきのあるものは信頼できないのでしょうね。
>個性はあるに決まっていると思えば、個性を問題にすることはありません。 >点数がよければいい、知識だけを教えればいい… >【養老】「個性」とか「その人らしさ」は、だいたいは生まれつき変わらないものを言っています。
それは顔つきのようなものですね。
>しかし、そういう価値を教育の中に持ち込むと、一番重要な価値に教育は関係ない、つまり教育は人間の本質的なことには関われないという常識ができてしまい、教育はいらないことになってしまう。 >それならば教師のやる気がなくなるのは当たり前です。
天下の真理を口にするのが先生の役割ですからね。
>【藻谷】たしかに、個性というものは生まれつきの違いなのですから、個性尊重なのであれば、そこに教育は携わらない、知識だけを教えてればいいということになりますね。
日本人は知識を大切にするが、個人の知恵は大切にしませんね。だから、偉大な人物は育たない。大切なのは考えの内容に対する個性ですね。
>【養老】そうです。 >だから教育が極めて表面的なものになって、点数がよければいいということになってしまう。
点数は人間の序列形成の根拠として使うことができますからね。序列社会には便利な方法ですね。
>なにしろ日本は明治維新以来、外国からいいものが入ってきたら、それを摂ればいいという考え方でやってきたわけですから、教育はないですよ。 >だから、すぐに「他所ではどうやっているのか」という話になるわけです。
だから、わが国では出羽の守が幅を利かせるのですね。受け売りと後追いの専門家ばかりが溢れていますね。
>しかし、その意味では日本の教育は成功したんじゃないでしょうか。
そうですね。金太郎飴のような顔をした人間の大量製造には成功しましたね。
>池田清彦くん(生物学者)が書いていますが、結局、戦後の日本の教育は卒業したらおとなしく会社に勤め、上司の言うことを聞いてきちんと働く人を養成したわけです。 >特に1960年代、70年代の大学紛争で懲りた国は、子供たちにそういう教育をするようになりました。
指示待ち人間の大量生産ですね。彼らは社畜になって一生を終えますね。
>机に向かうだけの教育はもうやめたほうがいい >【藻谷】その教育が、経済や企業を発展させるために、ものの見事に役に立ったということですか。 >【養老】そうです。 >実際にそういう大人が育ったわけですから、日本の教育は有効だったということじゃないでしょうか。
日本の教育は、マニュアル人間の大量生産に成功しましたね。
>しかし、その教育はもういい加減やめたほうがいいと思います。
そうですね。思考停止の後遺症が恐ろしですね。
>【藻谷】日本の学校教育はもともと、百数十年前のヨーロッパの教育の仕組みを日本に持ちこんだものでした。 >目的は富国強兵。 >当時の資本主義、軍事覇権主義むき出しの世界を、国としてサバイブするためだったのでしょう。 >【養老】そうです。 >子供を椅子に座らせて教育するという、いまでも日本の学校で行われている方法は、19世紀のイギリスで産業革命とともに始まったと言われています。 >彼らはいまになって、「椅子の生活は不自然だから文明人の8割は年を取ると腰痛になる」といっています(笑)。 >僕の記憶でも、小学校に入って初めて椅子に座って机に向かいました。 >しかし、畳での正座の仕方を教わったことはありますが、椅子の座り方は一度も教わった記憶がない。 >覚えているのは、椅子に座って頬杖をついたら、嫌と言うほど先生に叩かれたことです。 (略) >子供がすくすく育つ学校の共通点 >【養老】先生が子供のやることに口を出さないから、子供たちの学びへのモチベーションが高まっていくわけです。 >フリースクール的な学校で学んだ子が伸びると言われますが、当然です。 >そこには自分で考えることを教えているからです。
彼らは思考停止を免れていますね。
>【藻谷】いまの文部科学省の教育指導要領でも、それが可能なのですか。 >締めつけが壊れてきているので、そういう公立学校も認められるようになってきたということなのでしょうか。 >【養老】いや、壊れてきているというよりも、本来、学校指導要領はがちがちではなく、いまの決まりの中でもフリースクールに近いような教育もできるようになっています。 >つまり、先生方が考え方を変えれば公立学校がそちらの方向に動けるんです。
‘求めよ、さらば与えられん’ ですね。何事も自分から積極的に求める態度が必要ですね。
>文科省は公立学校でそうした教育が行われることを妨害しているわけではありません。
日本人には意思がない。意思の無い人間には責任も無い。とかくこの世は無責任。責任者がいなくてはどうにもならない。
>【藻谷】制度としてはできるはずなのに、子供にとっても先生にとっても苦しい教育になっています。
残念なことですね。イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、以下のように述べています。 日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って、独裁者は必要でない。よく言われることだが、明治というあの大変革・大躍進の時代にも、一人のナポレオンもレーニンも毛沢東も必要でなかった。(引用終り)
>【養老】教師や親、みんながもう少し素直に本音で話さないといけないのでしょうね。
自己の意思を示せば当事者・関係者になる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから、常に傍観者にとどまっている。教師や親は存在するが、彼らは教師や親に属していない。兎角この世は無責任。
>現場の先生方が、「書類を書くために教師になったんじゃない、子供を育てたくて教師になったんだ」とか言い出せばいいのじゃないでしょうか。
わかっちゃいるけど、やめられない。
>教育の方法を変えれば子供は伸びる >【藻谷】さはさりとて、戦前の教育と戦後の教育は大きく変わったと言われています。 >先生がご覧になって一番変わったのはどこだと思われますか。 >【養老】一番変わったのは教育の価値観――教育というものの重みではないでしょうか。 >戦前の教育はいまより遥かに重たかったし、戦前の方が集団的でした。 >全体を重視する教育をしていましたが、いまは個人重視の教育になりました。
そうですね。全体主義が個人主義になりましたね。しかし個人の考えというものが存在しない。日本人は相変わらず思考を停止しているからです。
>【藻谷】社会全体で構成員全員の教育のレベルを上げよう、という意識が高かったということですか。 >【養老】そうですね。 >現代はそうした意識が希薄で、それぞれの人や家庭の事情によって全体よりも個人の能力を伸ばすように変わってきていると思います。 >さきほど言ったように、個性主義が教育全体の価値を下げてしまったから。
そうですね。詰め込み主義が価値を減らしつつありますね。
>教育はやる側が一生懸命になっていることが子供に伝わる。 >そのことは明らかなので、学校も出来たばかりだといい生徒が出るんです、先生が熱心だから。 >教師のその「熱」に子供は影響を受ける。 >そういうことが忘れられている。 >私も大学の解剖の実習を教えていたけれど、解剖の実習は非常に手間がかかる大変な授業です。 >2カ月くらいつきっきりで指導するわけだから。 >そのやり方は元があってだいたい決まっているのですが、あるときに、それを変えようという話になった。 >やり方を変えると変えた年は、学生に必ず良い結果が出ます。 >それは、変えようと言った人は自分の責任だと思って一生懸命にやるからです。
‘意思あるところに道あり’ (Where there’s a will, there’s a way.’ ですね。
>でも何年かすると惰性になって普通になってしまうと、学生もまたもとに戻ります。
‘また変えよう’ ということになりますね。
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