>山陰中央新報 によるストーリー • 11 時間前 > 自由と人権、それに市場開放。 >今年で生誕100年になる作家・故司馬遼太郎さんは、自らの講演をまとめた著書『春灯雑記』で、この三つを現代の普遍的な文明の基準に挙げていた。 > 司馬さんは、戦後の日本は自由と人権は国内的には「十分といっていい水準」と見ていたが、難題は基準のもう一つ市場開放の中の労働市場。
自由は意思の自由の事である。日本人には意思が無い。だから、意思の自由にも意味がない。’不自由を常と思えば不足なし’ の状態ですね。
>日本が文明の担い手に成長していくには避けられないと承知しつつも、司馬さんには「もし大きな規模で労働市場を開放すれば、国家そのものが変質する」とのためらいがあった。
そうですね。メンバーシップ型雇用をジョブ型雇用にしなくてはなりませんからね。日本人は義理を果たすために働いてきた。義理とは個人的な序列関係から生じる義務ですね。 ‘義理が廃ればこの世は闇だ’ の想いに耐えがたい。
> 厚生労働省によると、昨年10月時点での外国人労働者数は、過去最多の約182万人。 >コロナ禍で増加率は鈍ったが、前年から約9万5千人増えた。 >生産年齢人口が減少していく日本では、2040年には外国人労働者の需要が700万人近くになるとの予測もある。
いよいよ日本の開国が近づいてきましたね。
> こうした事情からか、政府も労働力確保のため外国人の長期雇用拡充へ向けて技能実習・特定技能制度の見直しに動く。 > 冒頭の司馬さんの見立ては32年前の講演「新しい日本をどうつくるか」でのこと。
日本人は新しい日本を作る為によく考えて努力しなくてはなりませんね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。自由とは思考停止の言い逃れになっている。 とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
>その当時、既に「日本が閉鎖的でありえた段階は、いまがぎりぎり一杯のところ」と指摘。
人間序列が保てなければ、日本人社会は閉鎖的ではなくなりますね。外国に住む日系人たちのような状態になるでしょう。
>多様性に耐えていく精神的体力の必要性に触れていた。
人はそれぞれに考えの内容が違いますからね。思考を停止している人はそれに戸惑いを感じます。他人の受け売りと後追いに終始していられなくなりますからね。
>「おびえるような結論」と司馬さんが講演の最初に前置きした「一歩、踏み出しますか。」という問いかけが現実味を帯びてきた。
一歩踏み出すのは難しいですね。無哲学・能天気では自分が否定されかねないからですね。
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