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2023年05月13日(土) 

 

>文春オンライン   >「改善の余地がある、これでは墓穴と同じだ」という現場の指摘も無視…戦時下に起こっていた日本組織特有の“致命的な問題”   >藤井非三四 によるストーリー • 7 時間前  

> 太平洋戦争史を振り返ると、日本人特有の「戦い方」が敗因となったケースは数多く存在する。  

(略)

>陸軍においてのマンパワーを主体とする試算   

> ところで戦前の日本は、国民が兵役義務をどこまで果たすことを期待していたのだろうか。   

>マンパワーを主体とする陸軍においての試算を見てみたい。   

> 開戦直後の昭和16年12月末、参謀本部第一部の第三課(編制動員課)は、長期にわたる持久戦を戦い抜くための「基本軍備充実計画」、通称「四号軍備」の研究を始めた。   

>この試算の一つによると、昭和25(1950)年度末までに長期持久が可能な態勢にすることが目標とされた。   

>その基幹戦力には、師団120個以上、航空中隊1000個が必要と試算された。   

>そしてこれを達成するには507万人の動員が求められ、加えて補充要員として270万人の召集が必要と見積もった。   

> 昭和15年の日本人の総人口は7200万人だったから、これでは近代国家の動員限界とされる10パーセントを超えてしまうが、法律を改正して朝鮮や台湾で徴兵を行なうことも計算に入れ、インドネシアなどでの「兵補」の募集にも期待したのだろう。   

> 骨幹となる日本兵が700万人とすると、国民にどれほどの兵役を課さなければならないかだが、陸軍省で予算と編制を扱う軍務局軍事課の試算では、次のようになっていた。   

>まず現役の服務期間を2年から3年に延長し、その後1年帰休とする。   

>次いで予備役として3年召集、また1年帰休、さらに2年召集するという体制にしなければ700万人態勢は維持できないとしていた(前掲『昭和陸軍秘録』)。   

>加えて、この2年の帰休においては農業生産に励んでくれというのだから、国民を絞るだけ絞るということになる。

 

>後のことを考えず「根こそぎ動員」    

> この「四号軍備」の実施は時期尚早とされ、昭和17(1942)年7月に保留とされた。   

>ところがこの計画を青写真として本土決戦準備の「根こそぎ動員」が昭和20年2月から実施された。   

>その結果、終戦時には陸軍で640万人(朝鮮人26万人、台湾人13万人を含む)、海軍で160万人(朝鮮人1万人、台湾人1万8000人を含む)、全軍で800万人を数えることとなった。   

>これで日本の動員率は11.47パーセントに達した。   

>まったく機械化されていない農業を営み、しかも女性の労働力を組織化できず、朝鮮半島などからの労働力の移入も治安問題から本格化できなかったにもかかわらず、それでいて動員率が10パーセントを超えたことは驚くべきことだった。   

>酷評すれば、その後のことを考えなかったからできたとも言えよう。   

 

‘後は野となれ山となれ’ ですね。   

 

> 日本人の思潮としては、完膚なきまでの敗北を喫したということへの反省よりも、「やれるだけのことはやったのだ」「できるだけのことは試みたのだ」というある種の満足感に浸りがちだ。   

 

そうですね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)    

 

>戦中の日本で指導的な立場にあった政治家、高級官僚、将帥の多くが、敗戦となってから妙に清々しい出家した人のような態度に終始した理由は、このやるだけやったという自己満足によるものだったように思われてならない。   

>国民に極限までの負担を強いておいて、自分たちだけが満足感を享受するとはどう受け止めればよいのだろうか。( #2に続く )    

 

日本人には意思が無い。被害者意識はあっても加害者意識がない。だから罪の意識も無い。罪の意識に苛まれる人も出て来ない。魂の救済を求める人も出て来ない。真摯の反省にも至らない。だから行き過ぎた行為にもストップもかからない。そして歴史は繰り返す。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。自由とは思考停止の言い逃れになっている。

とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)           

 

(略)  

 

 

.

 

 

 

 


閲覧数70 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/05/13 15:38
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