>『核抑止論で防いでいる平和は、とても平和とは言えない』長崎「原爆の日」当時を知る人が減る中、次世代にバトンをつなごうとする女性が被爆者代表のメッセージ >熊本放送(RKK) によるストーリー • >1 日 >長崎・原爆の日の平和祈念式典で、被爆者を代表して熊本の女性が言葉を述べました。 >当時を知る人が減る中、次世代にバトンをつなごうとする女性の思いです。 >8月9日の平和祈念式典。 >熊本市に住む工藤武子(くどう たけこ)さん(85)が被爆者代表として「平和への誓い」を述べました。 >被爆者代表 工藤武子さん(85)「地球と人類の未来を守るには、核兵器廃絶しかない」 >長崎の平和祈念式典で、熊本の人が被爆者代表となったのは、公募となって初めてです。 >工藤さんが長崎で被ばくしたのは7歳の時。 >母親や3人の姉弟と、爆心地の南東およそ3キロの場所にある自宅にいた時のことでした。 >放射線で生涯苦しめられる 肺がんに >工藤さん(7月4日自宅で)「(母が)「ご飯よ」って言って、食卓に着いて、今からっていう時に、ピカーっと、稲光が集合したような」 >近くの造船所にいた父親を含む親ときょうだいの家族6人、そして母親のお腹の中にいた妹に当時、目立ったけがはありませんでした。 >しかし放射線が、一家を次第に苦しめます。 >両親と3人のきょうだいが被ばくの影響とみられるがんで亡くなり、工藤さん自身も3年前に肺がんの手術を受けました。 >工藤さん「武器はみんな非人道的ですが、核兵器は特にね(放射線で)その人を生涯痛めつけるでしょ」 >50代の時に夫の勇二(ゆうじ)さんの地元、熊本に移り住んだ工藤さん。 >証言を始めたきっかけは、70歳の時に参加した「ピースボート」の世界一周の旅でした。 >他の被爆者も一緒に船に乗ると、船の中や寄港先で次々と証言を求められました。 >工藤さん「(それまでは)目先の自分の生活で精一杯だった。 >(船に乗ったことで)自分は何と無関心であったことか、自分のことばかり考えていたのかって」 >旅を終えた2009年、工藤さんは活動を始めます。 >伝え方は「紙芝居」。 >熊本に住んでいた被爆者の体験を基にした作品です。 >工藤さん「『おじいちゃん、こんにちは』。夏休みになり、東京から孫がやってきました」 >若い世代に当時のことを伝えると同時に、紙芝居という形にすれば、誰でも伝えることができると考えたからです。 >紙芝居を聞いた子どもたちは… >菊陽南小学校6年生 牧野康弘さん(11)「みんなに核兵器はダメと伝えて、海外にも伝わっていけば、(核兵器は)なくなるんじゃないかなと思います」 >被爆者の高齢化で証言を聞けなくなる日 >活動を続ける工藤さんは85歳。 >被爆者の高齢化で証言を直接聞けなくなる日は、確実に迫っています。 >1995年には2300人いた熊本県内の被爆者は、現在は650人ほどにまで減りました。 >*1995年 2372人 >*2023年3月末時点で656人 >こうした現状から工藤さんは熊本に住む自分がメッセージを伝えたいという思いが年々強くなったといいます。 >そして8月9日、台風6号の接近で会場が変更され、岸田総理も欠席。 >異例の形となった式典をむかえました。 >工藤さん「いよいよきょうだ。頑張らなくちゃ」 >無事に出席することができました。 >そして、「平和への誓い」に込めたメッセージ。 >7歳だった自分と今を重ね、世界に訴えました。 >工藤さん「子どもたちが戦争に巻き込まれ、私たちと同じ苦しみに遭うようなことがあってはならない」 >夫・勇二(ゆうじ)さん(82)の姿も会場にありました。 >工藤勇二さん「良かったよ。 >良かったねって」 >核兵器の脅威に世界が怯える中、当時を知る立場だからこそ、次の世代も核の怖さを知ってほしい。
太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人命の尊重はどのように考えられていたのであろうか。 好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦争でも 原爆投下にゃ勝てやせぬ。泣いて崩れた敗戦日。 ‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに核兵器使用をちらつかせて恫喝した。 これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967年 (S42) 12月に 佐藤栄作首相は説明した。 日本人のお花畑はもうない。 「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領) ‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’ (マシュー・ポッティンジャー) ‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相)
>工藤さんはそう、願っています。 >工藤さん「(核抑止論で)防いでいる平和っていうのは、とても平和とは言えないと思うんですよ。
政治家が意思の力を発揮して核戦争を抑止しているのですね。戦争の無いのが平和でしょう。工藤さんは意思の存在しない自然の平和を望んでいるのでしょうね。
>体験して、記憶している最後の年代だと思うから。 >今、引き継がなくちゃ、しっかりそれを」
日本人には意思が無い。だからノンポリ・政治音痴が治らない。戦争が自然現象のように見えている。戦争に巻き込まれるか巻き込まれないかの問題になる。政治に関する人民の無力ですね。意思の力で世界を取り仕切る気構えがない。
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