>【終戦の日】「戦地に行った世代」「戦争を知らない世代」それぞれが語る「戦争」鹿児島 >鹿児島テレビ放送 によるストーリー • >18 時間 >鹿児島・姶良市に太平洋戦争で生死の境をさまよった98歳の男性がいる。 >一方で、戦争の記憶を語り継ごうとする戦後生まれの女性が鹿児島県内で活動している。 >異なる世代の2人がそれぞれに語る「戦争」。 >そして「今の世界」に思うこととは。 >鹿児島県姶良市の重富民俗資料館に、古めかしい字体の手紙が展示されていた。 >「今年はミカンはいかがでしたか?お父さんは例年通り選果場?ミカンは送っていただかなくてけっこうです」 >陸軍兵士として出征した垂水市の男性が、戦地から家族に宛てた手紙だ。 >「戦争といっても自分たちにリアリティは感じられないと思う。 >しかし、この手紙は“本当に本物”なので、自分の意思とは関係なく戦争が行われていくということを感じていただければと思います」 >こう語るのは垂水市の歴史研究グループとともに、手紙を現代文に清書した山下春美さん、55歳。 >ヘルパーとして山下さんが介護していた女性の戦争体験がきっかけで、9年前から戦争の記憶を語り継ぐ集会を開催している。 >手紙の展示もその活動の一環。 >手紙の中には戦場の生々しさが伝わってくる文章もあった。 >「海岸にはまだ敵の屍体(原文ママ)が転がっていて臭気鼻をつきます」 >これについて山下さんは「あからさまというか、その状況を書けるというのは、慣れてしまうというのが人間にはあるんだなと思いました」と語った。
そうですね。‘貧すれば鈍する’ といったようなものですね。
>男性は、ソロモン諸島方面で戦死したとみられるが、日付や正確な場所は分かっていない。 >戦争を語り継ぐ集い 世話人・山下春美さん 「戦争は、数でしか人の命がカウントされない。 >もし私たちが『命は尊い』と思っているとするなら、このような現実は起こらないと思っています」
我が国には責任のない人ばかりが揃っていたのでしょう。意思の無い人には責任もない。 ‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
>理不尽で尊厳も伴わない死が珍しくない、戦場。
犬死ですね。
>そこから辛くも生還を果たした男性がいる。 >「戦争からは逃れられない。 >もう行くんだ、と思っていた」 >こう語るのは姶良市に住む坂上多計二さん、1925(大正14)年生まれ。 >2023年で98歳になる。 >農業学校出身の坂上さんは、軍に所属する民間人としてフィリピンのミンダナオ島に派遣され、兵隊たちが食べる野菜を栽培していた。 >坂上多計二さん 「大根、ニンジンを栽培していた。 >あっちは(フィリピン)は暑いからどんどんできるんですよ」 >島にアメリカ軍が上陸したのは、終戦3カ月前の1945(昭和20)年5月。 >この時、20歳の坂上さんは民間人で抵抗する術もなく、約30人の部下を率いて、ジャングルに逃げ込んだ。 >食料を探す任務につく部下に坂上さんは、こんな言葉をかけていたという。 >坂上多計二さん「(食料探しは)『一人で行くな、一人で行ったら殺されるぞ』と。 >味方に殺される。 >えさ(食料)を狙われる。 >地獄ですよ、もう本当に!」 >味方の日本人さえ敵になってしまう過酷な環境。 >そんな中迎えた1945(昭和20)年8月15日。 >戦争が終わった後も1か月ほどジャングルに隠れていたという坂上さん。 >その後、捕虜となり、終戦の年の11月に日本に帰ってきた。 >「帰ってくる途中、中国地方の焼け野原はものすごかった」坂上さんはこう振り返る。 >7月27日、鹿児島市のJR鹿児島駅に山下さんの姿があった。 >ここにある慰霊碑には1945年のこの日、空襲で犠牲になった12人の名前が刻まれている。 >犠牲者を悼む山下さん、今の世界情勢についてこんなことを口にした。 >戦争を語り継ぐ集い 世話人・山下春美さん 「もし私たちにもっと想像力があるなら、こんな悲しい現実は起こっていないはずです」 >終わらないロシアのウクライナ侵攻。 >相次ぐ北朝鮮のミサイル発射実験。 >戦後78年がたった2023年、世界では軍事的な緊張が高まり続けている。
そうですね。各国の政治家は話し合いではなく武力による政治の決着を望んでいるのですね。
>そして、鹿児島県内にも国防の波が…。 >西之表市の馬毛島では基地整備が進み、鹿屋航空基地ではアメリカ軍の無人偵察機が運用されている。 >戦争を知らない世代の山下さんが今、思うこととは。 >戦争を語り継ぐ集い 世話人・山下春美さん 「戦時中の人が『知らないうちに戦争が始まっていた』と言っているのと同じで、私はもう既に始まっていると思っています。
ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに核兵器使用をちらつかせて恫喝した。 これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967年 (S42) 12月に 佐藤栄作首相は説明した。 日本人のお花畑はもうない。 「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領) ‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’ (マシュー・ポッティンジャー) ‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相)
日本人は議論下手である。だから相手と交渉ができない。しかたがないから世界の事を自分一人で決める。この世は自分と相手とで成り立つ世界であるということを忘れているようだ。 日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。 日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
マッカーサ元帥は日本人を以下のように考えていました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
>抑止力というのであるなら、軍備を備えるよりも、悲惨だった事実に目を背けずに向き合うことなのかもしれない」 >そして、戦場を経験した坂上さんも強い口調でこう語った。 >坂上多計二さん 「私は、戦争は絶対反対です。 >大事な身内を戦争に出して、死ぬような目に遭わせたいとは思わない。 >だから私は『正義の戦争はない』と申し上げる」
我々日本人はノンポリ・政治音痴の状態を早急に脱却しないといけませんね。そして、民の力を国政に反映させなくてはなりませんね。これが民主主義の根幹です。
>戦後78年、安全保障を取り巻く環境は目まぐるしく変わっているが、戦争を知る世代も知らない世代も、反戦と平和への思いが変わることはない。
そうですね。我々の思いを政治力に反映させる必要がありますね。
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