>PRESIDENT Online >日本の神話を記した『古事記』『日本書紀』はどういう書物なのか。 >人気予備校講師の茂木誠さんは「白村江の戦いでの大敗した朝廷が、『唐からの独立』と『皇室の正統性』を示すために政治的な意図で書いた。 >このため海外向けの『日本書紀』は漢文、日本人向けの『古事記』は万葉仮名で書かれている」という――。 >※本稿は、茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。 (略) >中華グローバリスト蘇我氏vs.ナショナリスト物部氏 >6世紀前半、多神教のヤマトに大陸から仏教が伝えられました。 >巨石や大木、滝などの自然物を祀っていたアニミズム的な原始神道とは対照的に、外来の新しい神様は金箔(きんぱく)に覆われたきらびやかな仏像でした。 >「すごい、こんな神様がいたんだ!」と当時の日本人は驚愕(きょうがく)します。 >仏教の教え自体に興味を示したというより、豪華絢爛(けんらん)な仏像に心を奪われたのです。 >その一方で、「これは本当に神なのか?」という疑いも生まれ、豪族間で争いが起こります。 >外来文化の受容に積極的だったのが蘇我氏です。 >欽明天皇の13年目(西暦552年)、百済の聖明王(せいめいおう)が献上した仏像と仏教経典の受け入れをめぐって天皇が意見を求めました。 >この時、蘇我氏を率いる蘇我稲目(そがのいなめ)が、「西方諸国ではみなこれを崇めています。 >わが国だけが背くことはできません」と答えました。 >現代風に意訳すれば、「国際的孤立を避けるため、グローバルスタンダードを受け入れましょう」と言ったのです。 >それに対して、「変なものを祀るな!」と異を唱えたのが物部(もののべ)氏と中臣(なかとみ)氏でした。 >物部氏は神官兼国防大臣でした。 >物部は「もののふ」とも読みます。 >「もののふ」は侍のことで、天皇を護る軍事集団です。 >「国を護る」というと、現代では軍事力を指しますが、当時は「霊的に護る」、つまり祭祀(さいし)の意味もありました。 >『先代(せんだい)旧事本紀(くじほんぎ)』という物部氏の伝承によれば、物部はもともとニギハヤヒを守る軍団でしたが、ニギハヤヒが神武天皇にヤマトを譲ったのを契機に、天皇家に仕えるようになりました。 >物部氏は、「異国の神を祀れば、わが国の神々の怒りを招きます」と猛反対します。 >「日本文化を破壊するグローバリズムに反対!」というわけです。 >この時、日本で初めて、「ナショナリズム対グローバリズム」の対立が起こったのです。 >結局、欽明天皇は、蘇我氏が自分の屋敷に仏像を祀ることを許しました。 >疫病の流行を機に始まった権力闘争 >ちょうどその時、疫病が流行りました。 >大勢やって来ていた渡来人が、大陸から感染症を持ち込んだのでしょう。 >この疫病の原因を、物部氏は「古き神々の怒りだ」と主張し、蘇我氏は「仏罰だ」と反論しました。 >この崇仏論争(すうぶつろんそう)は、物部氏と蘇我氏との権力闘争に発展し、娘を天皇に嫁がせていた両者は皇位継承問題に介入します。 >最終的に蘇我馬子が物部守屋を一族もろとも滅ぼし、物部氏側についた皇族も抹殺して終結しました。 >「敵」に学んで中央集権的な国家体制を整備 >蘇我氏は、皇族を担いでは傀儡(かいらい)政権をつくり、政権へのコントロールが利かなくなると抹殺する。 >これを繰り返し、何人もの天皇や皇族を殺しています。 >だから、聖徳太子は天皇になることを望まず、叔母の推古(すいこ)天皇を支えることで実権を握ろうとしました。 >ところが、49歳で急死してしまいます。 >そのあと聖徳太子の長男である山背(やましろの)大兄王(おおえのおう)の一族を蘇我入鹿が攻撃し、自害に追い込むという事件を起こします。 >調子に乗った蘇我氏がついに大王や天皇の位を狙い始めると、中大兄皇子がクーデタを起こし、蘇我氏を滅ぼします。 >これが645年の乙巳(いっし)の変(へん)です。 >このクーデタを助けたのが中臣鎌足(なかとみのかまたり)で、中臣氏は物部氏に仕えていた神官の家柄でした。 >つまり、乙巳の変は、物部勢力による蘇我氏に対するリベンジという側面もあったのです。 >白村江の戦いで唐に大敗 >この直後、朝鮮半島に激震が走ります。 >隋の滅亡後に中国を統一した唐によって、百済が攻め滅ぼされてしまうのです。 >ヤマトに亡命中だった百済の王子の要請に応える形で中大兄皇子(のちの天智天皇)が百済復興の援軍を送り、ついに中華帝国軍とヤマト軍が激突しました。 >これが663年の白村江(はくすきのえ)の戦いです。 >結果は、ヤマト軍の大敗でした。 >唐からの戦後処理の遣いが、2000人もの兵士を引き連れて九州に上陸し、ヤマトに対して脅しをかけてきました。 >軍事力の差は歴然で、まともに戦っても勝てる相手ではありません。 >なんとか時間を稼ぎながら、唐に対抗できる強力な国家をつくるにはどうすればいいのか。 >それを考えたのが中大兄皇子改め天智天皇と、弟とされる天武天皇でした。 >白村江の戦いのあと30年間、唐と国交を断絶したヤマトは「日本」=「日の昇る国」という国号を採用し、中央集権国家の実現を急ピッチで進めていきます。 >「唐に対抗するには、唐に学べ!」を合言葉に、官僚統制国家である唐の律令制に基づいた法体系や制度を取り入れた国づくりがスタートしました。 >それまで「大王」と呼ばれていた君主の称号も、中華皇帝を意識して「天皇」と改められました。 >公地公民制を導入し、豪族の支配下にあった土地を天皇の所有としました。 >人民の数を把握したうえで土地を人民に分配し、徴税する仕組みをつくったのです。 >また、唐の侵攻に備えて全国から徴兵した兵士を北九州に配備し、西の守りを固めました。 >これを「防人(さきもり)」と呼びます。 >こうして日本は、豪族連合政権の地方分権型国家から、天皇中心の中央集権型国家へと変貌を遂げていったのです。 >この時の状況は明治維新に似ています。 >ペリーの黒船艦隊に遭遇して、「あれには到底勝てない」と衝撃を受けた日本人は、欧米諸国に追いつけ追い越せと西洋文明に学びました。 >敵に学んだのは明治維新が最初ではなく、そのルーツは白村江の戦いでの大敗にあったのです。
失敗は有益な勉強になりますね。
>「日本国とは何か?」という自問 >唐と国交を断絶した30年間は、日本人が「日本国とは何か?」を自問する時期でもありました。 >なぜ、われわれは大唐帝国に抵抗するのか? >この時期にスタートした重大事業が『古事記』と『日本書紀』の編纂です。 >この二つの書物が書かれた目的は、一つは律令制導入による日本統一を記念した出版事業だったのでしょう。 >しかし、もっと重要なのは、敵である唐に対して、「わが国は神武天皇以来、連綿と続く一つの皇統(こうとう)が治めている文明国であり、秦の始皇帝よりも古い建国の歴史を持つ国である」とアピールすることでした。 >これが『日本書紀』が、漢文で書かれている理由です。 >もう一つ、この歴史観を日本人自身に教えるための書物が『古事記』でした。 >基本的に日本語で書かれていますが、まだ仮名文字が誕生する前なので、日本語の一音一音に漢字を当てた「万葉(まんよう)仮名(かな)」が使われています。
当時は漢字の達者な人が多かったようですね。読み手がいなければ書き手にも意味がない。
>つまり、これら二つの書物は、「唐からの独立」と「皇室の正統性」という政治的な意図で書かれた文書であり、すべてが史実とはいえないのです。 >日本形ナショナリズムの始まり >特に話が盛られているのは古い時代の記述です。 >日本列島にもともとあったのは地方豪族による地方分権型の連合国家でした。 >しかし、唐からの侵略の危機にあって、「わが国は昔から一枚岩」と言わざるを得なくなった。 >もし、「日本国は、実は小国家の連合体」と知られれば、ヤマト政権に不満を抱く地方豪族に外国勢力が加担し、内乱を引き起こさないとも限りません。 >実際、北九州の豪族が新羅と結んで反乱を起こしています(磐井(いわい)の乱)。 >ここに、日本型ナショナリズムの始まりを見ることができます。 >『古事記』と『日本書紀』の編纂を指揮したのは皇族の舎人(とねり)親王(しんのう)ですが、この時代の最高実力者は、中臣鎌足の息子の不比等(ふひと)でした。 >鎌足は乙巳の変のあと、クーデタ成功のご褒美に天智天皇から「藤原」という新しい姓を賜ります。 >ただし、その時に鎌足はすでに臨終を迎えており、実際に「藤原」姓を名乗ったのは不比等からです。 >蘇我氏に代表される国内の敵をすべて片づけた藤原氏が、次に外の敵に焦点を当てた事業が、日本の歴史をまとめることだったのです。 >---------- 茂木 誠(もぎ・まこと) 予備校講師 東京都出身。 >駿台予備学校、ネット配信のN予備校で大学入試世界史を担当。 >東京大学など国公立系の講座を主に担当。 >世界史の受験参考書のほかに、一般書として、『超日本史』(KADOKAWA)、『「戦争と平和」の世界史』(TAC出版)、『バトルマンガで歴史が超わかる本』(飛鳥新社)、『「保守」って何?』(祥伝社)、『グローバリストの近現代史』(共著、ビジネス社)『ジオ・ヒストリア』(笠間書院)、『政治思想マトリックス』『日本思想史マトリックス』(PHP研究所)ほか多数。 >YouTube「もぎせかチャンネル」でも発信中。 > ----------
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