>朝日新聞デジタル >広島市長、教育勅語に「民主主義的な発想ある」との見解 研修で引用 >朝日新聞社によるストーリー >・18時間 > 広島市の松井一実市長は19日、講師を務める市の新規採用職員研修で戦前・戦中の「教育勅語」の一部を引用していることについて、「民主主義的な発想の言葉が並んでいる」などと述べた。 >今後の研修でも使う考えを改めて示した。 >教育勅語の一節を引用している > 松井氏は、研修資料の「生きていく上での心の持ち方」と題した項目で「先輩が作り上げたもので良いものはしっかりと受け止め、また、後輩に繫ぐ事が重要」と記述。 >教育勅語の一節として「爾(なんじ)臣民 兄弟(けいてい)に 友に 博愛 衆に及ぼし 学を修め 業を習い 知能を啓発し 進んで公益を広め 世務(せいむ)を開き」との文言を掲載している。
上からの目線でモノを言う。これは序列国家の礼儀作法ですね。
> この日の定例会見で松井氏は、教育勅語について「先進国は民主主義を一生懸命広めて国力を増強しているから、日本も追いつかなきゃいけないと思って、そういうコンセプトを書き込んだ」とし、「コンセプトの使い方が、天皇陛下が全部取り仕切るような用語の扱い、構成にしたことで、使い方を誤り、日本が軍事国家になった」との見解を述べた。
日本人には意思がない。だから指示待ち人間になっている。そこに上意下達の命令が来る。上意とは上の者の意思ではなくて恣意である。意思の無い人間には責任がない。兎角この世は無責任。わが国は無責任な軍事国家になった。
> その上で職員研修では、戦後の国会で教育勅語の排除が決議されたことに触れた上で、「民主主義を取り込もうとしているといったような内容だから、そういう評価ができるのではないかと、説明している」とした。
自己の意思を示せば当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから、常に傍観者になっている。 日本人は日本国民であって日本に属していない。 ‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
> 今月11日には「教育勅語を再評価すべきとは考えていないが、その中に評価してもよい部分があったという事実を知っておくことは大切だ」とのコメントを出していた。
序列メンタリティの持ち主は自由・民主の民にはなれませんね。
> 日本大の小野雅章教授(教育史)は、教育勅語は「天皇と臣民の関係という話を前提としている」と指摘。 >松井氏が引用する部分も「すべてが命を投げ出し、国家に貢献しなさいという部分にかかるものだ。 >爾臣民という言葉自体が主権在民にもとる。
そうですね。王は君臨すれども統治せず。わが国は ’お前と俺’ の社会でなくてはならない。
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。
>いいところもあれば悪いところもあると解釈すること自体が成り立たない」と述べた。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。わが国のジャーナリストはその要請に応えることができる人であろうか。わが国から国際的にも有力なジャーナルが多数出ることを期待しています。
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