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2024年10月22日(火) 

 

>現代ビジネス   >海外からは「日本人」ってどう見えてるの?…ある人類学者が提唱した「超重要キーワード」   >奥野克巳の意見・   >11時間・   

>「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。   

>聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。   

>『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。   

>※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。   

>日本研究の名著   

>アメリカ人類学における重要人物、ルース・ベネディクトの著作として『菊と刀』を取り上げてみましょう。   

>この本のタイトルを聞いたことがある人も多いかもしれません。   

>日本国内では日本研究の書としてよく知られています。   

>ベネディクトは日本を一度も訪れないままこの本を書いたのですが、だからといって彼女がフィールドワーカーでなかったわけではありません。   

>ベネディクトは1922年にセラノ、1924年にズニ、翌年にズニとコチティ、1927年にピマのフィールドワークを行い、1931年以降には学生とともに、アパッチやブラックフットという、数々のネイティブ・アメリカンの現地調査を行っています。   

>彼女も師であるボアズの考えを引き継いで、急速に失われゆくネイティブ・アメリカンの伝統文化の記録を残すべきだと考えていたのです。   

>ベネディクトは第二次世界大戦が始まると、アメリカ軍の戦時情報局に召集されます。   

>1944年に日本研究の仕事を委嘱され、その時まとめられた報告書をもとにして、戦後の1946年に『菊と刀』を出版しています。   

>彼女は『菊と刀』の第1章で、現地に行かないで日本研究を行うことに関して、アメリカには日本で育った日本人がたくさんいて聞き取りが可能であり、また過去に蓄積された日本研究の厖大な資料を参照することができる状況だったと述べています。   

>この著作に関しては、日本人がどんな国民であるのかを解明してほしいという依頼をアメリカ軍から引き受けた点で、人類学が戦争協力に与したという指摘があります。   

>たしかにそうなのでしょうが、事情はもう少し複雑かもしれません。   

>それはアメリカという特有の政治状況の中で、人類学が発展してきた事実にも関わっています。   

>すでに述べたように、アメリカ人類学はファシズムや共産主義思想に対抗し、民主主義を守るための理想を追求するという観点から発展を遂げていきました。   

>そうした政治状況の中で『菊と刀』は書かれたのです。   

>『菊と刀』は、日本の「恥の文化」と欧米の「罪の文化」を対比的に語っている本であると評されます。   

>ベネディクトは、欧米の「罪の文化」は、善悪の絶対的基準を用いて良心の啓発を説く、キリスト教をベースにしていると見ます。   

 

欧米人には意思がある。意思のある人間には加害者意識がある。罪の意識もある。深刻な反省におちいることもある。  

日本人には意思がない。被害者意識はあっても、加害者意識がない。罪の意識もない。これは子供やアニマルと同じである。加害の事実に深刻な反省はない。日本の宗教も贖罪と距離置いている。     

 

>その観点から、人々は神の視点を内面化し、罪の意識という強制力によって自己を律し、善行に♯勤{いそ}しむのです。   

 

罪の意識が高じると、欧米人は地獄におちる。地獄におちなければ、天国の話しも極楽の話しも必要でない。      

 

>「罪の文化」と「恥の文化」   

>それに対して「恥の文化」では、善悪の絶対的基準となるものがありません。   

 

そうですね。序列順位は横並びの比較ですからね。絶対的な基準がない。    

 

>「恥の文化」にいる人々は、「世間の目」によって自分の行動を決めると言います。   

 

そうですね。日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。だから、日本人は現実に流されやすいです。   

 

>要するに、人からどう見られているかを基準にして生活を送っているのです。   

 

そうですね。見栄と外聞に従って生きていますね。   

 

>他人からの批評という外面的な強制力に基づいて日常の振る舞いが決められるのです。

 

そうですね。日本人は思考を停止していますから。判断は外面的なものに頼らざるを得ないですね。      

 

>日本人は、恥辱感を原動力としています。   

 

そうですね。日本人には序列メンタリィティがあり、向上心がある。下位は人間には屈辱感がありますね。日本人の礼儀作法は序列作法になっていますね。序列なきところに礼儀なしです。      

 

>世間の目を気にしながら、恥をかかないように自己を抑制するのです。   

 

そうですね。   

 

>ベネディクトはそこから論を進めて、日本人たちは、恥をかくことがないように自分で自分を監視するために、「無我」の境地や「死んだつもりになって生きる」ことを理想としているのだと、とてもユニークな解釈を提示しています。   

 

自分本位でなければ屈辱感は生じませんからね。   

 

>こうした分析の根底にあるのは、文化相対主義的な視点です。   

>彼女は欧米の文化と日本の文化、「罪の文化」と「恥の文化」には優劣はないという前提から持論を展開しています。   

 

そうですね。’不自由を常と思えば不足なし’ ですね。   

 

>ただ、『菊と刀』最終章の「降伏後の日本人」でベネディクトが述べていることは、文化相対主義と矛盾するかもしれません。   

>ベネディクトは、アメリカの民主主義の理念である個人主義や契約の概念に合致しない非民主的な制度や慣習は廃止しなければならないと断じています。   

 

そうでしょうね。そうでなければ文化的な生活ができませんからね。この選択は趣味の問題になりますね。         

 

>そして文化は学習可能だとするボアズ以来の見方に沿って、日本はアメリカの民主主義的な国家に生まれ変わらなければならないと唱えるのです。   

 

民主主義国か、権威主義国かの選択に成れば、やはり我々は民主主義国を選択しますね。   

 

>つまり、アメリカの民主主義という方便に、文化相対主義が無残にも組み込まれてしまっているのです。   

 

世界には民主主義国でない国の方が多いですね。権威主義国には長い伝統がありますからね。人々は強権に慣れきっていますね。       

 

>「生のあり方」を探究するアメリカの人類学はここへ来て、現実への提言をする中で、大きな困難を抱え込んでしまったのだと言えるのかも知れません。   

 

権威主義国では、個人の自由を大幅に制限しなくてはなりませんね。それが嫌な人は、命を懸けて祖国を離れなくてはなりません。      

 

 

 

 

 


閲覧数62 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2024/10/22 20:21
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