>現代ビジネス >多くの「文系の学生」が勘違いしている、論文を書く際に「主題」と「対象」を混同してしまう「致命的な誤解」 >小熊英二 (社会学者) の意見・ >23時間・ >文の書き方がわからない…。 >卒論やレポートを前にして苦労する学生は多いでしょう。 >でも、論文の「型」を理解すれば、勉強はもっと楽しくなります。 >社会人にも必ず役に立つ、論文を書く上で重要な「考え方」とは? >圧倒的な筆力で評判の社会学者・小熊英二さんが、大学生の興味・関心を的確に導く「論文教室」です。 >※本記事は小熊英二『基礎からわかる論文の書き方』(講談社現代新書、2022年)から抜粋・編集したものです。 >主題は抽象的な問い、対象は具体的に観測できるもの >科学についての途中の歴史は飛ばしましょう。 >私の考えを述べます。 >実証的な科学とは何か。 >それは、この世の「見たり聞いたりできるもの」を観測して、「見えたり聞こえたりしない法則」を探求する試みです。
そうですね。科学は実験や観察をした内容から自分自身のストーリーを作るものですね。
>異論のある人もいるでしょうが、ここでは、そのように考えて話を進めましょう。 >そう考えるなら、対象とは、「見えたり聞こえたりするもの」です。 >難しい言葉でいえば、経験的に観測できるものです。
そうですね。現実の内容ですね。事実のことですね。
>それでは、主題とは何か。 >それは、個別の対象とは別の次元にある、普遍的な法則の探求です。
そうですね。非現実の内容ですね。自分自身の考え・哲学のことですね。
>近代科学の特徴の1つは、主題や方法が普遍的で、対象に規定されないことです。 >「あなたでなければいけない」とか、「かけがえのない地球」とかいうふうに、個別の対象に規定されるということがない。 >そして普遍的な主題、つまり「いつでもどこでも何が対象でも」通用する法則を、普遍的な方法、つまり「いつでもどこでも何が対象でも」通用する方法で探ろうとする。 >これが近代科学の特徴です。
それは個人の世界観ですね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy.
>先ほどの理科の実験でいえば、「酸素はいかにして発生するのか」という法則性の探求が主題です。 >「二酸化マンガン」や「過酸化水素水」は、別のものでもかまわないのです。 >この考え方でいえば、政治を「政策科学」にするというのは、政治を「誰がいつどこでやっても同じようにできるもの」にしようということだ、といえるかもしれません。 >「日本」は対象か、主題か? >このように、科学の立場では、対象を単なる素材materialとしか考えない傾向があります。 >その姿勢が、科学の傲慢さと自然の軽視、環境破壊などを招いたのかもしれません。 >そのことは無視できないのですが、ここでは「科学」というものは、このように「主題」と「対象」を区別するものだと理解してください。
主題の内容は頭の中にある。対象の内容は頭の外にある。
>自然科学の場合は、これを区別することが、比較的に理解しやすい。 >たいていはモノが相手なので、対象を素材と割り切ることがやりやすいのが一因でしょう。
そうですね。
>しかし人文・社会科学では、この区別があいまいになることがあります。 >たとえば先に挙げましたが、「日本について」では、日本は対象なのか、主題なのかわかりません。 >これがたとえば、「日本における階層間格差——SSM調査1995—2015の計量分析」というかたちであれば、何が主題で、何が対象なのかがはっきりします。 >対象としているものは、特定の調査で集められたデータですから、目で見て読んで分析できます。 >この場合は、「日本における階層間格差がどのような法則性で分布しているのか」が主題の問いといえます。 >つまりここでの主題は、階層間格差の分布の法則性です。
そうですね。
>「日本」は、いってしまえば、とりかえ可能な対象です。 >日本でなくても調査できる主題であり、誰がいつやっても同じ方法で再現可能な研究だといえるかもしれません。 >もちろん、自分が住んでいる国だという点では、「日本」は「とりかえ可能」というほど軽いものではないかもしれません。 >論文の社会的意義とか、著者の責任感といったものを、無視することはできません。 >しかしそれは、「日本」にかぎらない普遍的な法則性の探求が主題であることとは別の話です。
そうですね。普遍的な法則は自然界には無くて、個人の頭の中にありますね。
(略)
|