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2025年04月01日(火) 

 

>現代ビジネス   >「偏差値」に支配された日本社会が直面すべき「ヤバすぎる事態」   >小熊英二 (社会学者) の意見・   >6時間・   

>なぜ日本は停滞からなかなか抜け出せないのか?    

>その背景には、日本社会を支配する「暗黙のルール」があったーー。   

>社会学者・小熊英二さんが、硬直化した日本社会の原因を鋭く分析します。   

>※本記事は小熊英二『日本社会のしくみ』(講談社現代新書、2019年)から抜粋・編集したものです。   

>複線的な制度   

>また他国の教育制度は、日本ほど単線的ではない。   

>ヨーロッパでは、小学校を終えた段階から、進学コースと実業教育コースに分かれてしまう制度が多かった。   

>とくにドイツでは、実業教育に進んで、職業資格をとる人が昔から多い。   

>普通教育コースに進んだ場合には、大学で学ぶ学力を備えているかを試す試験(ドイツならアビトゥーア、フランスならバカロレア)を受験し、それに合格しないと大学の入学資格がない国が多い。   

>その代わりに、たいてい個別の大学入試はない。   

>また国立大学は無償ないし格安の国も多い。   

>とはいえこれは、貧しい人を助ける格差対策というより、選抜された優秀な人材を育成する優遇策だったと考えた方がいいように思う。   

>もっとも2010年代では、たとえばフランスの普通バカロレアの合格率も8割から9割にあがって、少数エリートとはいえなくなっている。   

>ただしフランスでは、3年制の一般大学と、準備学級を含め実質的に5年制のグランドゼコールでは制度が違い、入学の方法も異なる。   

>カードル(上級職員)の公募は、バカロレア取得後5年以上を要求していたりするが、これは3年制の一般大学の卒業生は大学院に行かない限り対象外ということだ。   

>アメリカでは、ヨーロッパの制度と違い、中等教育までは現代日本と似ている(戦後の日本がアメリカの制度を取り入れたからである)。   

>高校卒の学力レベルを試す大学進学適性試験(SAT)はあるが、一種の目安であって、合格しないと高等教育に進学できないものではない。   

>その点も、日本とやや似ている。    

>ただしアメリカの高等教育は日本より多様で、入学選抜の方法もさまざまであり、名門私大・州立大学・コミュニティカレッジなどの役割分担があった。   

>2年制のコミュニティカレッジは職業教育が中心で、地元の実業界とつながり下級職員の供給源になっていた。   

>上級職員は4年制大学が供給源だったが、進学率の上昇にともない、4年制大学卒でノンエグゼンプションになる人も増えた。  

>さらに上の職に就くには、前述のように修士号や博士号がないと、むずかしくなっている。   

>「偏差値」は日本だけ?   

>以上が日本のしくみとちがうところは、職務に求められる学位があり、その求められる学位が上昇している、ということである。   

>日本の企業や官庁は、職務に即した専門的学位は求めていない。   

>大学で何を勉強したかもさほど問題にしない。   

 

そうですね。日本ではただ人間序列の順位だけが問題ですね。   

 

>経団連加盟企業が、採用にあたって語学力や履修経歴を重視していないことは、第1章で述べたとおりである。   

>経営者のなかには、「欧米では新入社員は即戦力。日本の大学生は一流、二流、三流に関係なく、卒業してもほとんど即戦力にならない」と述べる人もいる。   

>しかし、そもそも企業が専門的な職務能力を要求していないのだから、学生を責めることはできない。   

>企業が重視するのは、大学や大学院で何を学んだかよりも、どんな職務に配置しても適応できる潜在能力である。    

 

そうですね。メンバーシップ型雇用に適した能力ですね。   

 

>その能力は、偏差値の高い大学の入学試験を突破したことで測られる。     

 

そうですね。天下の秀才が良いのでしょうね。      

 

>他国にもこうした潜在能力を評価する傾向はあるが、日本はその広がりが大きい。   

>逆にいえば、日本で大学入試のランキングが重視されるのは、企業や官庁が、修士号や博士号を重視していないからである。   

 

そうですね。企業や官庁には学問の専門家は必要ないですね。   

我が国には人手不足の話は何処にもあるが、頭脳不足の話は聞いたことがない。   

 

>「博士号・修士号・学士号」という序列が機能していないから、「A大卒・B大卒・C大卒」という序列が重視される、と考えればわかりやすいだろうか。

 

そうですね。「博士号・修士号・学士号」は学問に関係している。 だが「A大卒・B大卒・C大卒」は序列競争に関係している。序列競争は学問に似て非なる代物である。      

 

>もちろん他の国にも、名門大学というものはある。   

>とはいえそうした名門校は少数で、「日本のようにあらゆる大学がこまかく序列化しているわけではない。   

>日本の高校や大学の総序列化は特異なものである」と教育社会学者の竹内洋は述べている。   

 

我が国の教育は、教育の名を借りた序列競争ですからね。この競争は序列人間の為せる技です。   

 

>また専門の学位が重要な社会なら、入試の難易度だけでランク付けしても、意味がないだろう。   

 

そうですね。子供の勉強の成果では学問の成果は測ることができませんね。   

 

>日本では偏差値がよく語られる。   

>しかし、一部名門校が突出しているだけでは偏差値は出せない。   

>近年はアメリカや世界の大学・学部のランキングもあるが、主として教育内容や教授陣の質、学生1人当たりの設備予算などを集計したものである。   

 

そうですね。高等教育には教育環境が大切ですね。   

 

>日本の学校教育で「偏差値」が発案されたのは1957年だったが、これは当初は生徒の得意教科や不得意教科の基準を明確にする指導法としてのものだった。   

>しかし1960年代半ばには、受験対策として学校のランキングに活用されることが始まった。   

>それが本格的な広まりをみせたのは、1970年代になってからである。   

>1960年代後半から70年代は、高校進学率・大学進学率が上昇して「大学卒」というだけでは意味がなくなり、「どの大学を卒業したか」が以前に増して重視されるようになった時期だった。   

>ただし日本のランキングには、大学から上はない。   

>英米独仏日の大学院を比較研究したバートン・クラークは、日本は工学修士をのぞけば大学院卒の需要がなく、「学士であろうと修士であろうと、終身雇用という古典的な日本的パターンの中で企業に対する忠誠心を有する献身的な成員へと育成されていく」社会だったと評している。   

 

我が国は序列社会で出来ていますからね。序列の社会には忠義な家臣が求められていましたね。      

 

>需要がなければ進学率は伸びず、ランキングも盛んにはならない。

>日本は学歴社会だといわれるが、他の国も学歴競争は激しい。   

>名門大学の経営学修士号があれば最初から給与が違うアメリカや、5年制のグランドゼコール出身者だけがカードル募集の対象になるフランスの方が、日本より学歴社会かもしれない。   

>しかし、「学歴」の機能が違うのだとしたら、比較してもあまり意味がないだろう。

 

そうですね。我が国では教育に名を借りた序列競争が盛んですね。人間序列の順位さえ決まれば、専門の知識などどうでもよい。これが本当の学問軽視の社会です。         

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つことばかりを気にしている大型の子供たちである。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。     

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく:  世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数48 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/04/01 00:41
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