>現代ビジネス >「玉音放送」を録音していた録音盤が反乱将校に狙われていた…「録音盤争奪事件」渦中で昭和天皇が「つぶやいた嘆き」 >学術文庫&選書メチエ編集部によるストーリー・ >19時間・ >側近がみた天皇 >日本という国の現在のあり方を知るためには、その歴史を学ぶことが重要です。
そうですね。
>とりわけ、近代化を遂げた日本が、なぜ太平洋戦争という無謀な戦いに突入したのか、その戦争のさなかにはどのようなことが起きていたのか、そして、いかにして戦争が終結したかを知ることには、大きな意義があることでしょう。
われわれ日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任が無い。日本人は責任者捜しに苦労する。 たとえば【英対する開戦の詔勅】では 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。 開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。 となる。 天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。
>戦時中、国家の意思決定に大きな影響を与えた一人として昭和天皇があげられますが、その昭和天皇が戦中どのようなことをしていたかを知るのに便利なのが、『侍従長の回想』(講談社学術文庫)という本です。 >著者の藤田尚徳は、海軍兵学校、海軍大学校を出たあと、海軍省人事局長、海軍省次官などを経て、1944(昭和19)年の8月に天皇の最側近である「侍従長」となった人物です。 >本書は、藤田が1961年に侍従長時代のことを振り返ったもの。 >本書では、藤田の目から見た昭和天皇の戦時中の日々がつづられており、そこからは天皇の知られざる姿とともに、終戦が近づくなかでの政府中枢の動向が見えてきます。 >たとえば、昭和天皇が終戦を知らせる玉音放送を録音した翌日、徹底抗戦を叫ぶ兵士たちはその録音盤を争奪しようと宮内省内部に乱入するという事件が起こりました。 >同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 >なお、「御文庫(ごぶんこ/おぶんこ)」とは、当時、昭和天皇が起居していた防空施設です。 >〈やがて御召しによって御文庫書見室に出た。 >陛下の後にはリンカーンとダーウインの像があった。 >朝の陽が二人の偉人像を白く照らしていた。
ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。 日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。 マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。 指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが日本人と英米人の子供と違う所である。
>陛下は深く椅子によられている。 >連日連夜の御辛苦から顔の色もすぐれない。 >「はっ」とするほど陛下の表情には力がなかった。 >陛下の胸中を拝察して、私は顔をあげることも出来なかった。 >すでに反乱将兵の姿は近くになかった。 >だが、つい先刻まで夜眼にも白い銃剣の光が御文庫の窓脇にまでちらつき、機関銃をガチャガチャさせる音が、この書見室にまで聞えたであろう。 >陛下は声をおとして申された。 >「藤田、いったい、あの者たちは、どういう積りであろう。 >この私の切ない気持ちが、どうして、あの者たちには、分らないのであろうか」 >暗然とした表情で、つぶやかれた。 >反乱将校たちの無謀な企てを、陛下はお嘆きになっていたのだ。 >陸軍省、参謀本部の少壮将校たちが、なお徹底抗戦を叫んで近衛師団に偽の命令を発して宮城にまで兵を出し、録音盤を奪って大詔の放送を阻止し、かわって天皇に戦争継続を直訴しようとしたのであった。 >夜が白むころになって、近衛師団にも事態は明確になり、平静をとりもどしてきた。 >東部軍司令官田中静壱大将は単身、反乱軍のなかに挺身して、その非を諭していた。 >森師団長を殺害して、偽の師団命令で兵を動かしていた反乱首脳者たちも、坂下門守衛所の一室で田中大将に、その不心得を諭されて、事の敗れたのを知って後に自決した。 >田中大将は、単身御文庫に進んで、陛下への奏上を申出た。 >反乱を部下が惹き起したことに対して、陛下にお詫びを言上すると共に、すでに鎮圧したことを陛下に奏上したいとのことであった。 >夜来の活動に表情をこわばらせた田中大将は、書見室で陛下に拝謁し、深く叩頭して御文庫周辺までを騒がせた将兵の罪を詫びた。 >かつて地下壕の建設には、軍司令官ながら卒先して工兵隊と共に奉仕し、宮城守護を誓った忠誠な武人である田中大将は、胸中深く責任を感じていたようだ。 >退出する時にも私に、「侍従長から深く、陛下にお詫び申上げておいて下さい。 >田中の出動が一歩遅れたために、陛下にまで御迷惑をおかけして申訳ない」と丁寧に何度も、お詫びの言葉を語ったのであった。 >大内山に朝が訪れていた。 >歴史的な八月十五日であった。
好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦 (いくさ) でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日 残念ながらわが国は原爆開発においてアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕はまぬがれた。 めでたしめでたし。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人の命はどのように考えられていたのか。 ‘ぬちだ宝’(いのちは宝)ではなかったか。
>玉音放送は予定どおり正午に日本放送協会から行われ、電波にのって全国津々浦々に終戦を伝えた。 >陛下の放送を聞くことは、大多数の国民が、もちろん初めてであった。 >録音技術が拙かったせいか、放送には雑音が多く聞きとりにくかったが、戦争終結、敗戦のことは国民に理解できた。 >政府も亦(また)告諭を発して、国民によびかけた。〉
日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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