>集英社オンライン >「戦没者のお陰で今の日本がある」という欺瞞。戦争責任は行政・教育・メディアを含め、「軍官民」すべてにある 10時間・ >〈県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦から80年。 >ふたたび沖縄が“要塞化”される今、「自分の街が戦場になる」とはどういうことか考える〉から続く >1945年3月末からの約3ヵ月間、沖縄には米軍が上陸して激しい地上戦が繰り広げられ、軍民合わせて20万人もの命が失われた。 >戦後も長らく沖縄は米軍に支配され、日本に返還後も多くの米軍基地が存在している。 >また、最近では近隣諸国を仮想敵として、全国で自衛隊基地の強靭化や南西諸島へのミサイル配備が進行中だ。 >狭い国土の日本が戦場になるとどうなるのか?――沖縄戦の悲劇の構造を知ることで、その実相が見えてくる。 >沖縄戦研究の第一人者・林博史氏は、膨大な資料と最新の知見を駆使して『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』を上梓した。 >その林氏との共著『沖縄県知事 島田叡と沖縄戦』(沖縄タイムス社)を昨年2024年に刊行した沖縄戦研究者の川満彰氏が、多大な犠牲を生んだ沖縄戦の背景と、新たな戦争を防ぐために何が必要かについて語りあった。 (略) >*2:沖縄県慰霊の日。1945年のこの日に牛島満司令官が自決し、沖縄における大日本帝国軍の組織的戦闘が終結したとされるため。 >林 今の平和教育についていうと、沖縄戦だけではなく日本における平和教育全般に言えることですが、体験者の証言に依存しすぎなのですよね。 >基本的に、体験者に共感し感情移入して「こういう体験を、戦争を二度と繰り返しちゃいけないですね」というところでまとめて終わってしまう。 >そういう平和教育が多い。 >日本の場合、加害の問題はもう、ほとんど取り上げられません。
そうですね。日本人には意思がない。だから、加害者意識 (罪の意識) がなくて、被害者意識だけがある。
>もっぱら空襲の問題とか、日本人が被害を受けた問題ばかりです。 >そこでももっぱら体験者に語らせて、感情移入して「戦争は二度と繰り返しちゃいけませんね」で終わらせる。 >それをやっている限り、政治的にどういう立場に立とうと誰もが納得するというか受け入れるので、学校にしてみれば、誰からも反発を受けないで済む。 >ただ、そこには社会科学的な分析が欠けていると私は思います。
そうですね。
>「じゃあ、なぜその人たちはそういう被害を受けたのか? 当時の政治や社会や経済などの仕組みはどうなっていたのか? どうしてそれを阻むことができなかったのか?」そういうことを、当時の社会のあり方を社会科学的に分析して、「なぜこうなったのか? 二度と繰り返さないためには、どこをどう変えないといけないのか?」という議論はしないんですね。
そうですね。
>これは先ほどから言っている沖縄戦の見方と実は同じです。 >この間、日本社会全体が社会科学的な認識じゃなくて、ともかく「共感」とか「寄り添う」とかいうことだけで終わっている。
気分・雰囲気・感情に囚われていますね。歌詠みの資質ですかね。
>寄り添うということを私は全部否定するつもりはないのですが、寄り添いながらも一旦ちょっと突き放して、「何でこの人たちはこんなひどい目に遭わされたのか? なぜなんだろう?」ということを冷静に考えてみる、分析してみる、という思考がすごく大事だと思うのです。
そうですね。
>そういう訓練や教育が必要じゃないかと。 >ですから私は、その点も意識しながらこの本を書いてみました。 >日本社会全体がもう基本的に今、感情優先になってしまっているので、そこは、同情とか共感をしつつも、冷静に分析し、人々に犠牲を強いた社会の仕組みなどをきちんととらえ、「どう自分は変えていけるのか?」「変えていくためには何をすればいいのか?」「自分には何ができるのか?」ということを考えるべきです。
そうですね。建設的なアイデアですね。
>そういう意味で、日本の平和教育は体験者の証言だけにずっと依拠し続けてきた。 >その問題が今あって「体験者がいなくなったらどうするのか?」ということも、わからなくなってしまっている。 >川満 本当にそのとおりです。 >私たち戦争非体験者というのは、「なぜ戦争が起きたのか?」ということを調べることはできます。 >一方、戦争体験者の人たちは、「自分に何があったんだ」ということをしゃべってくれるわけです。 >だから、非体験者の俯瞰した物の考え方、見方と、体験者の「実際にこうだったんだ」という部分を、うまく組み合わせ、構成して、今の人たちにどうやってわかりやすく伝えていくかが大切だと思います。 >その意味でも、戦争非体験者が大枠を作って、その中に戦争体験者のお話を入れていくという形にしたほうが、今の人たちに理解しやすいでしょう。 >先ほども言いましたけど、戦争は始めてしまったら、もうダメなんですよ。 >止められない、本当に。 >だから、「新しい戦争への道」という言葉が出ている今こそ、「今じゃないと止められないよ」という認識をみんなと一緒に作らないといけないのです。 (略)
日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。 日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。‘以心伝心・阿吽の呼吸・つうかあの仲’といったところか。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。 孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。 、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。、、、、、日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。 日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。 宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)
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