>ダイヤモンド・オンライン >「自分は自己肯定感が低いからダメなんだ」という日本人の悩みが、あまりにも的外れな理由 >榎本博明によるストーリー・ >22分・ (略) > 自己肯定感という言葉が使われるようになったのは、ごく最近のことであって、十数年前までは自尊感情という用語のもとに研究が行われてきたので、まずは自尊感情の測定法についてみていくことにしたい。 > 心理学の世界において、自尊感情を測定する心理尺度として、最も多く使われてきたのが、10項目からなるローゼンバーグの自尊感情尺度である。 >それにはいくつかの翻訳があるが、自己に関する研究活動を一緒にさせていただいた故星野命(ほしのあきら)先生の翻訳版は、ローゼンバーグの自尊感情尺度を広めるのに大きく貢献した。 >それは、つぎのような項目で構成されている。 >1.私はすべての点で自分に満足している >2.私は時々、自分がてんでだめだと思う >3.私は、自分にはいくつか見どころがあると思っている >4.私はたいていの人がやれる程度には物事ができる >5.私にはあまり得意に思うところがない >6.私は時々たしかに自分が役立たずだと感じる >7.私は少なくとも自分が他人と同じレベルに立つだけの価値がある人だと思う >8.もう少し自分を尊敬できたらばと思う >9.どんなときでも例外なく自分も失敗者だと思いがちだ >10.私は自身に対して前向きの態度をとっている > このうち、2、5、6、8、9は逆転項目といって、「あてはまらない」と答えた場合に自尊感情得点が高くなる。 >つまり、項目1、3、4、7、10は、あてはまれば自尊感情得点は高くなり、あてはまらなければ自尊感情億点は低くなる。 >反対に、項目2、5、6、8、9は、あてはまれば自尊感情得点は低くなり、あてはまらなければ自尊感情得点は高くなる。 > ここまでの解説を読んでも、自己肯定感がどういうものなのか、今ひとつ実感が湧かないという人も少なくないはずだ。 >そのような人も、これらの項目を見ながら、自分はどうなのだろう、身近なあの人はどうなのだろう、などと考えてみることで、自己肯定感が高いとか低いとかいうのがどういうことなのか、少しは実感が湧いてくるのではないだろうか。 >自己肯定したがる欧米人、周囲に溶け込みたがる日本人 > 心理学者のクロッカーとパークは、自尊感情の追求はけっして普遍的な人間の欲求ではなく文化的現象だと指摘する。 >その証拠として、日本人は他者との関係や結びつきに重きを置き、目立つことよりも溶け込むことを重視するという心理学者ハイネたちの知見をあげている。
そうですね。日本人には意思がないですからね。非現実 (考え・哲学) もない。 これでは目立つところもないですね。
> そして、日本人は、アメリカ人のようには自尊感情を維持し、守り、高揚させようとするようには見えないし、自尊感情の追求に多くのコストを払うことはないという。 > さらには、アメリカ人が自尊感情の追求によって不安を軽減することに大きなコストを支払うように、日本人は周囲に溶け込むことによって不安を軽減することに大きなコストを支払うのではないかと論じている。
‘雉も鳴かずば撃たれまい’ ということですね。
> これは、まさに僕たち日本人が日頃から実感していることではないだろうか。 >僕たちは、自信たっぷりに振る舞って自分を押し出すよりも、相手にプレッシャーを与えたり相手を傷つけたりしないように心がけ、周囲から浮かないようにすることに心を砕く。 >ゆえに、自己肯定にこだわる必要はないし、あまり自己肯定するとかえって周囲に溶け込みにくくなる。
日本人は無哲学・能天気である。だから自己肯定の内容が無い。
> アメリカ人をはじめ欧米の人たちの言動をみていると、その自信にあふれる様子に圧倒されることもあるかもしれないが、根拠なく自信満々な様子や他人の気持ちに無頓着に自己主張する姿に呆れることもあるはずだ。 >そこまで他人を見下し、自己肯定するのは、何とも見苦しいと感じることもあるのではないか。
自由とは意思の自由のことである。彼等には自由が在りますからね。
>でも、そうしないと生きていけない社会なのである。
‘求めよ、さらば与えられん’ ということですね。
> クロッカーたちは、何かがうまくいかなかったりして自尊感情が脅威にさらされると、自尊感情の高い人は他人の価値をおとしめてでも自分の価値を回復しようとすることを実証している。 >他人を引きずりおろしてでも、自分の価値を高めて、自尊感情を何としてでも高く維持しないとやっていけないのだ。
彼らは人の反対を恐れないですね。意見は人人により違うから。
> それに対して、日本では、自信たっぷりに見せたり、自己肯定して自分を際立たせたりしなくても、十分に生きていける。
それは没個性の生き方ですね。
>大事なのは、周囲に溶け込み、みんなとうまくやっていくことなのである。
そうですね。外の世界は関係ないですね。井の中の蛙の生活ですね。
> そのため、自己肯定するよりも、周囲の人たちと協調し、良好な人間関係を築くことにエネルギーを注ぐことになる。 >自己を肯定するよりも、思いやりをもち、人と協調していくことが重んじられる。
そうですね。日本人は WIN-WIN の関係を求めていますね。
> こうしてみると、自己肯定感を高める要因が、欧米社会と日本社会では大いに違っているとみなすべきではないだろうか。
そうですね。
>自己肯定感の高め方は文化により異なる > 欧米では自己肯定を貫くことで自己肯定感が高まるのに対して、日本でそのようなことをしたら周囲から浮き、不適応感に苛まれ、かえって自己肯定感は低下してしまうはずだ。 > 僕たちは文化の衣を身にまとって生きている。 >自己肯定感というのは、属する社会の文化にうまく適応することによって高まっていくものなのではないか。 > そうであるなら、欧米人にとっての自己肯定感は自分を際立たせ自信満々に振る舞うことによって高まるだろうが、日本人にとっての自己肯定感は謙虚さを示し思いやりや協調性をもって周囲の人たちと良好な人間関係を築くことによって高まるのではないだろうか。 > 逆説的な言い方になってしまうが、日本人の場合は、ある種の自己否定が自己肯定感を高めるといった側面があるのではないか。
そうですね。’身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ’ ですね。 しかし、これでは個性を伸ばす教育に支障が出ますね。自己実現も不可能ですね。
> そうすると、国際比較調査の自己肯定感得点を根拠に、「日本の若者の自己肯定感の低さは問題だ」とみなしたり、「日本の若者の自己肯定感を何とかして高めないといけない」と考えたりするのは、大きな勘違いに基づくものと言わざるを得ない。
現在の国際社会でやっていくには、日本人相手の対処法だけでは不十分ですね。我々日本人は欧米人に対する対処法も知っていなくてはなりませんね。
> そうした勘違いによる教育政策が普及することで、せっかく内省能力があり、向上心もあり、思いやりもあり、周囲と協調しながら日本文化に適応している若者の心が、中途半端に欧米化することで、どの文化にも適応できないものにつくり変えられてしまう恐れがある。
中途半端ではいけませんね。’生兵法は怪我のもと’ ですね。
> ここまで理解できれば、「自分に満足」とは思えず、自己肯定感得点が低くなっても、「自分は自己肯定感が低いからダメなんだ」などと気に病む必要はないし、国際比較調査のデータをみて「日本の若者は自己肯定感が低いからダメなんだ」などと萎縮する必要もないことがわかるだろう。
日本人には国際社会に対する対処法を習得することが必要ですね。
>「向上心溢れる自分がここにいる。 >自分はこんなもんじゃない。 >もっと立派な人間になれるはずだ。 >ここで満足してしまったら成長はない。 >まだまだ成長できる。 >もっともっとマシな人間になれる。 >だから今の自分に満足だなんて答えることはできないんだ」といった感じに開き直ればいい。
日本人には印欧語の時制 (tense) に対する理解が必要ですね。
> このように考えると、ほめまくりによって自己肯定感を何とか高めようという近頃の風潮は、文化的要因をまったく無視して、自己肯定感得点に振り回されるばかりで、あまりにも見当違いだとしか思えない。
そうですね。
>実際、ほめまくりによって自己肯定感が高まる気配はみられない。
そうですね。其れよりも相手を下に見る内容を考える傾向が発達しますね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々の考えの内容は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。 「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)
日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。各々の政治家は日本の国際化に鑑みて日本語の表記法に深い関心を持つべきである。
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