>「学歴だけじゃなくて、もっと個性を見る世の中のほうが正しいと思います」。 >学歴は社会に悪影響を与えているのか考える >びーやま: wakatte.TV >受験・子育て17歳のときに知りたかった受験のこと、人生のこと。 >2025年6月29日 6:20 >「大学受験」は10代における最大のイベントです。 >残念な側面でもありますが、いい大学にいけば、なりたい職業になれる確率は上がり、将来の選択肢は増えるのが現在の日本です。 >それほどまでに大学受験の持つインパクトは大きくなっています。 >そんな難しい時代でも「自分らしい大学進学」をするために書籍:『17歳のときに知りたかった受験のこと、人生のこと。』が発売されました。 >本書は、きれいごとを抜きにして、「大学受験とはどういうものなのか」「人生とはどういうものなのか」を考えることができる受験の決定版です。 >本記事では発刊を記念して著者である、びーやま氏への特別インタビューをお届けします。 >今の世の中は学歴偏重? >――学歴じゃなくて、もっと個性を見るべきだという意見をそれなりに耳にします。 >びーやまさんはこのことについてどう思われますか? >びーやま氏(以下:びーやま):気持ちはわかります。 > 新卒採用をはじめ、もっと個性を見て評価される社会もいいですよね。 > ただ、じゃあ今の形式がダメかと言われると、そんなこともないなというのが正直な思いです。 >――どういうことでしょうか。詳しく教えてください。 >びーやま:その「個性を見る」というのはなにを指すのかというのは考えなければいけないですよね。 > たとえば、それぞれの強みがバラバラだとしても個性だけで見る世の中だったら、それでも優劣がつくわけです。
そうですね。
> 新卒採用で甲子園で優勝しましたという人と、文化部で全国金賞でしたという人がいたら、どうやって判断するのでしょうか。
そうですね。「上と見るか、下と見るか」の判断は難しいですね。どうして上下判断が日本人に必要になるのですかね。 日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになっている。自己実現の妨げになっている。
> 性格も同様です。 >本当に個性だけで判断することは可能でしょうか。 >むずかしいですよね。 >というか、それは本当にいいことなのでしょうか。 >それこそ、「こういう性格の人のほうが優れている」というのを助長してしまうのではないでしょうか。
日本人は千差万別の世界を容認できないのですかね。
> つまり、個性で判断するというのは理想ではあるものの、判断基準がないという点において、非常にむずかしいのです。 >「性格的に君じゃない人を選びました」と言われて、納得できますか?
‘蓼食う虫も好き好き’ ですね。
> そんなの主観であって、公平じゃないと思うのではないでしょうか。
価値は主観で決めるものでしょう。自然界にもともと価値などあるはずがない。
> なので、個性が大事なのは否定しませんが、個性だけで見る社会も意外と危険があると僕は思います。 (略)
先進国では賃金も高ければ物価も高い。 途上国では賃金も安いが物価も安い。だから、人々はそこそこの生活ができていて困らない。 高い物価の品物を途上国に売るには技術格差を使わなくてはならない。そうすれば、値段は高くても商品は売れる。その金で低価格の原料を外国から仕入れることができて裕福になる。 例えば、旅客機の様なものを作って外国に売れば過当競争を避けて利益を上げることができる。これが経済成長の原理である。 だが、最近のわが国は低賃金、低物価の国の方に近づきつつある。周辺諸国との間の技術格差を失いつつあるからである。わが国は人手不足はあっても頭脳不足のない国だからである。 頭脳を使わなければ、わが国民は低物価・低賃金の底に沈んでしまう。考えは人それぞれである。頭以外の部分を使って勝負を挑む伝統が没個性の祟りを受ける。だから国民には個性の教育が大切である。
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