>NEWSポストセブン >《戦後80年》「絶対国防圏外」極限のソロモン諸島から生還した元海軍大尉の証言「補給はしないが降伏は許さない」犠牲者4万3000名のうち戦死者は約9000名に過ぎなかった >NEWSポストセブンの意見・ >9時間・ > 太平洋戦争の激戦地となったソロモン諸島。 >そのひとつブーゲンビル島は、多くの犠牲者を出し「墓島」とも呼ばれた。 >ノンフィクション作家の神立尚紀氏が、常に死と隣り合わせのサバイバル生活について生還者が語った、貴重な肉声を紹介する。 >【マップ】南太平洋ビスマルク諸島、ソロモン諸島要図。 >福山さんはラバウルなどを経て、トリポイルで終戦を迎えた >国に見殺しにされた兵士たち > 太平洋戦争の戦況が悪化した昭和18(1943)年9月30日、日本政府は、戦線縮小と作戦方針の見直しをふくめた「絶対国防圏」構想を発表する。 >これは、北は千島からマリアナ諸島、西部ニューギニアにいたるラインを絶対国防圏として死守するというものだが、それは同時に、その圏外にある日本軍将兵を、国が見殺しにする、ということと同義でもあった。 > 当時、ブーゲンビル島(現・パプアニューギニア)トリポイルで対空砲台指揮官を務めていたのが、福山孝之・元海軍大尉(故人)だ。 >「絶対国防圏の外側には、東部ニューギニア、ラバウル、ソロモンを中心に、約30万もの将兵がいたんですよ。 >その30万名に対して、今後補給はしないが降伏は許さない、死ぬまで戦えと、そんな無茶な命令を出したというのは、世界史上にもあまり例を見ないんじゃないでしょうか。
気でも狂ったか。自国軍に対する兵糧攻めですね。これでは敗戦は免れませんね。
>この構想を聞かされたときは、とんでもないことだとみんな憤慨していましたね」 > 福山さんは大正7年、島根県の生まれ。 >昭和16年12月、東京帝国大学法学部を繰り上げ卒業し、海軍の初級指揮官を養成するため新設された「海軍兵科予備学生」を志願。 >翌年1月、1期生として横須賀海兵団に入団し、千葉県の館山砲術学校で陸上戦闘指揮の猛訓練を受けた。 > そして昭和18年1月、予備少尉に任官すると、横須賀鎮守府第七特別陸戦隊に配属され、ソロモン諸島の激戦場に送り込まれていた。 >「絶対国防圏」構想発表からほぼ1か月後の11月1日、米軍はブインから約80キロ離れたブーゲンビル島中南部のトロキナに上陸。 >みるみるうちに飛行場を建設し、島全体の制空権を完全に掌握する。 >同時に、日本軍陣地に対する空襲も激しさを増していった。 >「見捨てられても降参は許されない。 >敵機が来たら戦わなければなりません。 >私の砲台では、偽陣地をつくって敵の攻撃をそらすなどの工夫を重ねながら、戦闘に明け暮れました。 >あるとき、銃座が直撃弾をくらって5名が一度に戦死したことがありましたが、班長の下士官は、頭に負傷して血をしたたらせながらも手ぬぐいで鉢巻をして、一生懸命に機銃を修理していた。 >そういう責任感の強い部下に恵まれたことは、あの酷い戦争のなかでの唯一の救いでした」 > 福山さんが指揮官を務めるトリポイルの対空砲台は、143名の隊員からなり、12センチ高角砲4門、25ミリ連装対空機銃3基、20ミリ機銃3挺、ほか高射器、測距器、探照灯などを装備していた。 >空襲がないときは農園づくり > 昭和18年9月以降、ブーゲンビル島への補給はまったく絶え、食糧事情は日に日に悪くなっていった。 >支給されるのは僅かな米と乾燥野菜だけ。 >昭和19年中頃にはその米も底をつく。 >栄養失調にマラリアが追い打ちをかけ、兵員の体力は衰えるばかりだった。 > 対空戦闘には機敏な動きが要求されるが、隊員たちは皆痩せこけて、立っているだけで精いっぱい。 >高角砲の弾薬筒を取り落としたり、砲手の力が足りず、弾丸がスムーズに薬室に入らなかったりすることもあった。 >「やむなく、各隊ごとに、戦いながらジャングルを切り開いて農地を開墾し、自給自足の態勢を整えることになりましたが、開墾するまでが大変な労力なんです。 >空襲がないときはもっぱら農園づくりに励みましたが、戦闘や訓練で時間が取られる上に病人が多く、なかなかはかどらなかった。 >イモが生育するまではイモの葉を煮て、わずかに飢えをしのいでいました」 >その年齢でその転職サイトはNG - 【2025年版】使うべき厳選5社 - 実は40代向け求人サイトがある > 福山隊では、漁師出身者で漁労班を編成して、魚とりやフカ(鮫)釣りに派遣した。 >塩も不足したので、製塩班をつくり、海岸でドラム缶を使い、海水を煮て塩を得たが、燃料となる薪を用意するだけでも、衰えた体には重労働だった。 >食糧不足は各隊とも同じだったので、畑荒らしが頻発、ときに発砲騒ぎや自殺者が出ることもあった。 >食糧を求めてあてどもなく歩き回る兵の姿を見ることもめずらしくなかった。 > 100名の部隊で4ヘクタールの畑があれば、生きてゆくために十分なイモと少々の野菜をつくることができる。 >福山隊では8ヘクタールの畑を耕し、パイナップルやインゲン豆も栽培していた。 > 昭和19年秋頃にはイモの生育もよくなり、しだいに食糧事情は好転してきたが、こんどは医薬品が不足し、マラリアで病死する者が増えてきた。 >しまいには、医務隊から食糧と引き換えに流出した薬にも闇値がつき、マラリア薬1粒が10円もの値段(現在の2~3万円に相当する)で取引されるようになった。 >「戦闘を主任務とする軍隊が、生きるためとはいえイモ作りに追われているのは異常な姿で、これではまるで屯田兵、あるいは集団入植です。 >こんな軍隊は、おそらく世界史上にないでしょう」 >誰もが全滅を覚悟したときに伝えられた「終戦」 > 昭和20年に入ると、米軍に代わってトロキナに陣を敷いたオーストラリア軍が、日本軍拠点に対して本格的に侵攻を始めた。 >5月にはそれまで日本軍に協力的だった現地人が離反、集団で姿を消すとともに、前線に派遣した分遣隊がその襲撃を受けるようになり、なかには全滅させられた部隊もあった。 > 8月になると、オーストラリア軍は、日本軍陣地から重砲の射程圏内となる15キロの地点まで進出してきた。 >そこを流れるミオ川が天然の濠になっているが、この線が破られれば、3、4日で敵軍がなだれ込んでくる。 > 日本側は、砲弾も残りわずかである。 >福山隊では1門あたり70発の砲弾しか残っておらず、他の砲台でも似たような状況だった。 >全滅を誰もが覚悟した。 >そんな最終局面にあった8月16日、内地より一日遅れて、日本軍将兵に終戦が伝えられたのだ。
好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦 (いくさ) でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日 残念ながらわが国は原爆開発においてアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕はまぬがれた。めでたし、めでたし。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人の命はどのように考えられていたのか。‘ぬちだ宝’(いのちは宝)ではなかったか。
> 警備隊本部で終戦を聞き、砲台に戻った福山さんは隊員を集め、「皆も苦労の連続だったが、これで終わった。 >生きて還れるぞ!」と訓示した。 > すると誰からともなく突然ワッという喚声が上がり、全員が諸手を挙げ、なかには跳び上がって喜ぶ者さえいたという。 >本国から見放されて2年近く、太平洋の捨て子部隊の、率直な感情の発露だった。 > 終戦時、ブーゲンビル島に生き残った日本軍は、軍人、軍属合わせて2万4000名あまり。 >昭和18年秋から終戦までに、4万3000名近くが犠牲になっていた。 >そのうち戦死者は約9000名にすぎず、残りは栄養失調や、マラリアなど風土病で死亡した者だった。 > 福山さんは翌昭和21年2月、復員輸送に使われた空母「葛城」に乗って浦賀に上陸。 >冬なのにボロボロの防暑服を着て、骨と皮ばかりに痩せた異様な姿の復員者の群れを見て、道ゆく人は皆、顔をそむけたという。 > 東京に帰ってみると、見渡す限りの焼野原で、渋谷の自宅も焼失。 >焼け跡には見覚えのある茶碗の欠片が落ちていたのみだった。 >がっかりしてその場に座り込むと、真白く雪を頂いた富士山の姿がとても近くに見えた。 >「戦争中の生死を賭けた3年間を思えば、あとのことは付け足しです。 >あの期間は人生のなかの別物で、残りの人生とのつながりは全然ない。 >海軍時代の経験が、戦後の自分の仕事の役に立ったとも思えない。 >しかし、あの戦争で死んだ人たちのことはけっして忘れられません」 > 戦後、大学卒業時に就職していた日鉄鉱業に復職した福山さんは、亡くなるまで戦没者の慰霊に尽くした。 >【プロフィール】 >神立尚紀(こうだち・なおき)/1963年、大阪府生まれ。 >ノンフィクション作家。 >1995年、戦後50年を機に戦争体験者の取材を始め、これまでインタビューした旧軍人、遺族は500人を超える。 >『祖父たちの零戦』、『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』など著書多数。 >※週刊ポスト2025年8月8日号
ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。 これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967年 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。 「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領) ‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’ (マシュー・ポッティンジャー) ‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相) 戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり。= 真に勝つことは自らの力を増すことで、戦わずして勝つことが最善である。 わが国は平和国家であるから自国の強大な抑止力 (物量) を相手国に見せつけながら、国家の最善を目指さなくてはならない。
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