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2025年08月05日(火) 

 

>現代ビジネス   >太平洋戦争で捕虜となり、オーストラリアの収容所で暴動に加わるが生き延びた男が迎えた「1945年8月15日」   >神立尚紀 (カメラマン・ノンフィクション作家) の意見・   >11時間・   

(略)  

>二度と帰れるはずのなかった故国の土を踏んだ   

>昭和21年4月3日。   

>高原希國さんは、復員船で浦賀に上陸、二度と帰れるはずのなかった故国の土を踏んだ。   

>「二度と帰れるはずのなかった」というのは、オーストラリアの捕虜収容所からの帰還だったからだ。   

>当時の日本でも、「捕虜になったものは死ななければならぬ」などという法規はない。   

>だが一般的に捕虜となることは「恥」とされていた。   

>敵軍に捕らえられた時点で生きて日本に帰れぬ覚悟を固めていたが、その上、高原さんは収容所で捕虜たちの暴動に加わり、九死に一生を得たのだ。   

>高原さんは大正9(1920)年、兵庫県姫路市に生まれた。   

>兵庫県立神戸第二中学校では三塁手として野球部の主将をつとめ、のちに東京巨人軍のエースとなる澤村栄治とも対戦したことがある。   

>大西洋単独無着陸飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグに憧れて飛行機乗りを志し、昭和13(1938)年、海軍甲種飛行予科練習生に二期生として入隊、偵察員としての教程を経て、飛行艇搭乗員となった。   

>開戦時は、九七式大型飛行艇(九七大艇)で編成された東港海軍航空隊の一員(一等飛行兵曹)として、前進基地のパラオ島にあり、偵察飛行などに任じたが、日本軍の緒戦における破竹の進撃にともない、ダバオ(フィリピン)、ケマ(セレベス島北部)、アンボンと転戦。   

>その間、昭和16(1941)年の大晦日には、日本海軍ではそれが唯一の例となる、大型飛行艇による敵水上機母艦雷撃(魚雷攻撃)に出撃するなど、幾度かの死線をくぐり抜けていた。   

>昭和17(1942)年2月15日、電信員として搭乗していた九七大艇が、オーストラリア北方のアラフラ海を単機で索敵飛行中、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船3隻からなる敵輸送船団を発見。   

>約2時間の触接ののち、積んでいた8発の60キロ爆弾で爆撃を敢行したが、その直後、敵戦闘機カーチスP-40と遭遇、高原さんが尾部銃座から放った機銃弾で撃墜したものの、自機も被弾、炎上し、海面に墜落した。   

>「手応えがあって、敵機が白い煙を吐いて墜ちてゆくから、勝った!と思ったのもつかの間、後ろを振り返ったら自分の飛行機も燃えてる。   

>操縦席からブザーG(モールス符号で--・)3声で、自爆の合図がきた。   

>墜落しながら、炎がまるで大蛇の舌のように、最後尾にいる私の尻に迫ってきました」   

>機長の主操縦員は機上で戦死、副操縦員が最後の力をふり絞って海面近くで機首を立て直したために不時着に近い状態で着水、8名の搭乗員のうち6名は脱出に成功し、搭載していた小さなゴムボートで漂流を始める。   

>南洋の灼熱の太陽の下、水も食糧もなく、重傷を負っていた1名は3日めに死亡、残った5名は5日めにようやく、オーストラリア・ダーウィン近くのバサースト島に漂着した。   

>そして、人跡未踏のマングローブの森やジャングルのなかをあてどもなく彷徨い歩き続けること10日間。   

>飢えと疲労で半死半生でいるところを現地人に助けられ、安心して眠りに落ちたが、目が覚めると豪州兵の銃剣に囲まれていて、抵抗すらできずに、開戦以来2番めの、オーストラリア軍の捕虜となった。   

>ちなみに第1号は、のちにカウラで捕虜の団長になった「南忠男兵曹」である。   

>(彼が、2月19日、機動部隊のダーウィン空襲のさいに戦死とされた豊島一 一等飛行兵であることは、戦後、明らかになる。   

>階級も一飛曹と偽称していた)   

>監獄での生活   

>目隠しをされ後ろ手に縛られたまま、5人は輸送機に乗せられ、どこともわからない監獄に収容された。   

>「『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓は、陸軍内部にのみ達せられたもので、海軍では読んだことも教わったこともありませんでしたが、日本人の道徳律として、そう考えるのが自然な時代やった。   

>5人は示し合わせて、米潜水艦に撃沈されたトロール船の船員ということにして、それぞれ偽名で呼び合うようになりました。私は、『船員・高田一郎』として、軍人としての痕跡を残さずに死んでいこう、そう決意することが、捕虜になった我が身を救う唯一の道と考えて、訊問に臨みました」   

>5人は、豪州軍の取調べに対して、徹底的に抵抗した。   

>ある者は何を聞かれてもハングリーで通し、またある者は読み書きができない風を装った。   

>取調べ官もついにさじを投げ、彼らに対する訊問を打ち切った。   

>オーストラリア軍は、彼らに制裁を加えることもなく、きわめて人道的に扱った。   

 

アングロサクソンには自由がありますね。   

 

>高原さんら偽船員たちは、はじめの半年はシドニーの西方約700キロのヘイという小さな町に設けられた収容所で、拘留されている約700~800名の在留邦人らとともに過ごしたが、そこの団長以外には軍人であることを隠し続けた。   

>捕虜に課せられた労働は1日8時間で、その内容も、道路の補修作業や、柵を作ったり牛馬の糞を集めたり、薪集めをしたりと、簡単なことばかりだった。   

>労働に対しては、1日8ペンスの報酬が支払われる。   

>収容所外での作業のときには、地元住民がお茶とケーキでもてなしてくれることもあった。   

>戦況の悪化にともない、前線からは続々と日本人捕虜が送られてきた。   

>ヘイの収容所は手狭となり、高原さんたちは、ヘイから数百キロ離れたところにあるカウラ第十二捕虜収容所(キャンプ)に移送された。   

>ここはもともとヨーロッパ戦線のドイツ、イタリア人捕虜を収容するために造られた施設で、直径680メートルの大きな12角形の敷地をA、B、C、Dの四つのエリアに区切り、昭和18(1943)年末頃には、Aはイタリア人、Bは日本人、Cはドイツ人、Dは日本人将校と台湾人、朝鮮人の捕虜が、それぞれ収容されていた。   

>そこには、水道設備も食堂、炊事場などの設備も整っていて、便所も戸外ながら水洗式、水と湯の出るシャワーもあった。   

>キャンプの外には病院もあり、通院することもできた。   

>「ドイツ人は服装、規律がキチっとしていて、毎日、朝は起床ラッパで起き、行軍などの訓練をやってる。   

>夜も消灯ラッパで寝る。   

>いっぽう、イタリア人は、捕虜の屈辱など微塵も感じていないようで、みんな陽気で、毎日、ギターやマンドリンを弾いて歌を歌ってる。   

 

ソ連のシベリア抑留とは雲泥の差ですね。   

 

>あれは戦争に弱いはずやと思いました。   

>農園への労働にも喜んで出て、農家の奥さんや娘さんと恋仲になったりね。   

>しかし日本人は、自分のことは一生懸命やるけど、労働に出るのを拒否したり、出てもだらしない格好をして、わざと作物を枯らしたり、アホなことばかりやりよる。   

>『ドイツ兵は銃を持って生まれてきた。   

>イタリア人はマンドリンを抱えて生まれてきた。   

>日本人はわけがわからん』と、豪州軍の将校にも言われていました」   

 

日本人は戦前戦後を通じて変わりませんね。無哲学・能天気では理解が得られない。     

 

>捕虜の人数が増えるにしたがい、そこには「捕虜文化」とでも呼ぶべき独自の、不思議な文化が育っていった。   

>捕虜のなかにはさまざまな前職の者がいるので、たいていのものは、ありあわせの材料で、自分たちで作ってしまう。   

(略)   

 


閲覧数22 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/08/05 17:25
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