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2025年08月05日(火) 

 

 

>軍人らしく、戦って死ぬ   

>カウラ捕虜収容所Bキャンプ(下士官兵キャンプ)の捕虜は、その時点で約1100名、21班に分かれる大所帯となっていた。   

>豪州軍から示された移送者名簿が、下士官と兵を事実上分離させるものであったことと、語学力不足によるコミュニケーションのまずさから、下士官・兵を不可分のものと考える捕虜の一部強硬派が激高、班長会議で、2、3人の班長が、この機に一斉蜂起することを主張した。   

>多くの者は慎重論の立場で、高原さんも、「我々は、運命のいたずらでこんなに多くの人と暮らすようになっただけ。   

>集合、離散はやむを得ない」という考えだったが、「強硬論を唱える人間に、『それでも君は日本人?戦陣訓を知らんのか?』と問いただされると、戦陣訓は知らなくても『日本人か?』には弱い。   

>捕虜になったとはいえ、自分も日本人だ、よし、負けてたまるか、という気になるんです」   

>班長会議は紛糾して収拾がつかなくなったので、全員の投票で意思を問うことになった。   

>結果は、8割の者が蜂起に賛成票を投じた。   

>賛成でなかった高原さんも、トイレットペーパーの投票用紙に賛成の〇をつけた。   

>「だからそのへんはね、投票というのがいかに周りに煽られたり、声の大きい方、耳あたりのええ方に踊らされたりして、極端な方向に流されやすいかということです。   

>いまも民主主義とは言っても、選挙には同じ危うさがつきまとうんやないでしょうか」   

 

そうですね。周辺圧力の効果ですね。   

 

>待遇に不満があったわけではない。   

>脱走しても、広いオーストラリア大陸から逃げられるわけでもない。   

>目的はただ一つ、「軍人らしく、戦って死ぬ」ことにあった。   

>一斉に蜂起する   

>そして8月5日午前2時、捕虜たちは一斉に蜂起する。   

>冴え冴えと晴れた満月の夜空に、ときならぬ突撃ラッパが鳴り響いた。    

>「私の班は、正面ゲートを突破するグループでした。   

>武器は何ひとつない。   

>私は、野球のバット1本と毛布2枚を持って、突撃ラッパの合図とともに飛び出しました。   

>鉄条網に毛布を掛けて乗り越えると、そこには豪州軍の機関銃、自動小銃の猛烈な射撃が待っていました」   

>赤い囚人服を着た約1100名の日本人捕虜たちは、施設に一斉に火を放ち、手には思い思いに野球のバットや食事用のナイフを持って、雄叫びを上げながら、三重にめぐらされた鉄条網を、赤い川の流れのように乗り越えていった。   

>オーストラリア軍の機関銃が火を噴き、赤や黄色の曳光弾が横殴りに激しく飛び交う。   

>捕虜たちはバタバタと斃れ、屍の山を築いてゆく。   

>前団長の南兵曹(豊島一飛)は、操縦練習生になる前は信号兵だったので、軍隊ラッパの心得があった。   

>彼は、突撃ラッパを吹き鳴らしたあと、銃弾を胸に受けて倒れ、自らナイフで喉をかき切って絶命したと伝えられる。   

>高原さんたちの次に豪州軍に捕えられた捕虜番号7番の台南海軍航空隊の零戦搭乗員・柿本円次二飛曹も、首を吊って自決した。   

>高原さんは、飛行艇の戦友・古川欣一二飛曹(偽名・山川清)が、脚を撃たれて目の前に倒れているのを見て、その最期を見届けようと伏せている間に銃撃が終わり、九死に一生を得た。   

>周囲には30名近くが伏せているように見えたが、高原さんと古川二飛曹以外は全員が死んでいた。   

>「私の尻のところで、神戸出身の土岐さんという陸軍の兵隊が心臓を射抜かれて、1発で即死しました。   

>サーチライトで照らされて、動くと撃たれるから、死体の山の中で死んだふり。   

>そら、怖かったですよ。   

>霜が降りる真冬の寒さに震えながら小便も垂れ流しで、そのまま朝を迎えました」   

>何としても生き抜いてやろう   

>この暴動で、日本人捕虜231名と豪州兵4名が死に、数百名が負傷した。   

>一緒に捕えられた飛行艇の戦友・沖本治義一飛曹(偽名・伊野浩)も命を落とした。   

>カウラの施設が焼け落ちたので、生き残った捕虜たちはヘイの収容所に移された。   

>これだけの事件のあとにも、豪州軍の捕虜に対する扱いは変わらなかった。   

>ただ、食事時にナイフとフォークが支給されなくなったのが、小さな変化と言えた。   

>生き残った日本人捕虜たちの意識も、何としても生き抜いてやろうというふうに変わったという。   

>「私は英語が話せたので、暴動後は通訳をやらされましたが、豪州軍の将校が、『あなたたちとの戦争が終わったら、こんどはソ連と戦うことになるだろう。   

>だから日本人の捕虜はそれまでの間のお客さんだ』と。   

>いま思えば、ちゃんと先を見通してた。   

>えらいもんやったなあ、と思います」

>ヘイの収容所に移ってからは、捕虜たちに労役が課されることもなく、パンと搾りたての牛乳、野菜の朝食が終われば博打やレクリエーションに興じていた。   

>マトンや魚、米、玉ねぎ、ジャガイモなどは豪州軍から支給されるが、ほかの野菜は自分たちで栽培する。   

>昼、夜は白米が出て、食事の用意はコックや主計兵だった日本人捕虜の役目である。   

>味噌や醤油の製造もできるようになり、天ぷらやコロッケなどの揚げ物も食卓にのぼった。   

>「やらないといけないのは自分の服の洗濯ぐらいで、食糧事情だけでいえば天国やった。   

>それでもみんな、戦況は気にしていて、新聞が届くと『どうなってる?』と集まってくる。   

>硫黄島の玉砕、イタリアのムッソリーニの処刑、ナチスのヒトラーの自害……毎日のように日本の都市が空襲で消え、沖縄に米軍が上陸し、戦艦大和が撃沈されたのも、沖縄が陥落したのも、新聞で知りました」   

>そして8月――。   

>「新聞に、一面全部を使って『Secret weapon attack HIROSHIMA』の大見出しが出て、1発の秘密爆弾で広島が壊滅したと。   

>数日後、長崎にも落とされて、このときははっきりと『Atomic bomb(原子爆弾)』と書かれていました。   

>それから連日、原子爆弾の原理や威力についての記事が続きました。   

>その間にソ連が日本に宣戦布告したとのニュースもあり、これはもうダメだと思った矢先に8月15日を迎えたわけです」   

>8月15日、豪州軍の兵舎から、「勝った!戦争は終わった!」との大歓声が響く。   

>「新聞には、日本が無条件降伏したと、大々的に書かれていました。   

>捕虜の団長と通訳が収容所長に呼び出され、戦争の終結を告げられました。   

>16日には、陛下の終戦の詔勅が新聞にも載りました。   

>豪州の将校たちは、『日本へ帰れるぞ!』『家族に会えるぞ!』と言ってくれるんですが、私は一向に気分が晴れませんでした」   

(略)   

 

 


閲覧数18 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/08/05 17:46
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