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2025年08月10日(日) 

 

>読売新聞   >「被爆の記憶を国内外に伝え続ける」 …長崎で平和祈念式典、遺族や各国代表が参列   >読売新聞によるストーリー・   >7時間・   

> 被爆80年の「長崎原爆の日」を迎えた9日、長崎市松山町の平和公園で長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が営まれた。   

>被爆2世の鈴木史朗市長は「長崎平和宣言」で、世界各地での紛争激化に触れ、「『武力には武力を』の争いを今すぐやめてください」と求めた上で、長崎を最後の被爆地にするため、「核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くす」と決意を示した。    

> 式典には、被爆者や遺族、94か国・地域と欧州連合(EU)の代表ら約4200人が参列した。   

>核保有国の米英などのほか、イラン、パレスチナが参加。   

>ロシア、ベラルーシは4年ぶり、イスラエルは2年ぶりに市の招待を受けて出席し、台湾は初めて参加した。   

>例年出席していた中国、ウクライナは欠席した。   

> 原爆がさく裂した午前11時2分、平和公園内の「長崎の鐘」が鳴らされ、参列者全員で黙とうした。   

>鈴木市長は、被爆者初の国連演説で「ノーモア・ヒバクシャ」と訴えた山口仙二さん(故人)や、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したことに言及。   

>「長崎の使命として、被爆の記憶を国内外に伝え続ける」と述べた。   

> 石破首相は「唯一の戦争被爆国として、『核戦争のない世界』、そして『核兵器のない世界』の実現に向けた国際社会の 取組(とりくみ) を主導していくことこそが我が国の使命」とあいさつした。   

> 爆心地に近い浦上天主堂では今夏、原爆で壊滅して片方のみの状態が続いていた「双塔の鐘」が米国人らの支援で80年ぶりに復活。   

>この日、長崎の鐘とともに荘厳な音色を響かせた。   

> 7月末までの1年間に死亡が確認された3167人の名前を記した原爆死没者名簿3冊の奉安も行われた。   

>1968年からの累計の奉安者数は20万1942人で、初めて20万人を超えた。    

> 厚生労働省によると、広島、長崎で被爆し、被爆者健康手帳を持つ人は今年3月末時点で9万9130人。   

>手帳交付が始まった1957年以降、初めて10万人を下回った。   

 

「アメリカがあのタイミングで原爆投下して、どれだけ破壊力があるかを世界中に知らしめられたことで、冷戦中の核兵器使用が防がれた。世界の滅亡を避けられたじゃないか。大体、日本は被害者なのか。  

ユダヤ人大虐殺をしたドイツと連盟を組んで、他のアジアの国にもひどいことをしたじゃないか。それでいて第二次世界大戦といったら原爆投下の被害ばかり語るのっておかしくない?  そもそも戦争中っていろんな国がめちゃくちゃひどいことをしたわけだから、日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしいと思う」 (あるアメリカの学生)   

 

日本人には意思がないので、加害者意識がない。それで罪に意識もない。

日本人には罪がない。だから天真爛漫とした子供の顔つきをしている。   

アメリカ人には罪がある。だから悪びれた大人の顔つきをしている。   

日本人には加害者意識はないが、被害者意識がある。だから臆せず自己の被害を世界に向かって喧伝する。この態度をおかしいと思うか思わないは、使用言語で決まってくるのであろう。     

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々の考えの内容は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。      

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 


閲覧数21 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/08/10 04:00
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