>プレジデントオンライン >「何様?」な児童・生徒が全国の学校に蔓延 ...教員が殴る蹴るの暴力・暴言を受けても “黙らされる” 学校現場の異常 >松尾英明によるストーリー・ >7時間・ >盗撮やわいせつ行為など不祥事教員に関する報道が目立つが、学校内では社会の明るみに出ない「事件」も起きている。 >千葉県の公立小学校教員・松尾英明さんは「児童・生徒による暴力・暴言で教員が心身に被害を受けるケースが増えているが、教員は『穏便に済ませて』と上から止められる」という――。 >問題のある児童・生徒に教員がモノ言えぬ異常 >60代の男性教員が教室で児童から蹴られ、反射的に蹴り返してしまった――。 >今年5月に札幌の小学校で起きたこの一件で、教員は教育委員会から減給処分を受けました。 >暴力はいかなる理由でも許されるものではありません。 >教員が罰を受けるのは妥当でしょう。 >ただ、この処分に関する筆者の記事(※)に多くの教員・教育関係者・子供を持つ保護者などから多くの声をいただきました。 >(※)小学生に蹴られた男性教員が反射的に蹴り返したら減給…子どもは何でも許され「教員は我慢しろ」でいいのか >それを要約すると、この問題を「教員の失敗・失態・不祥事」だけで片付けてよいのだろうか、という懸念でした。 >驚かれる方もいるかもしれませんが、いま、日本の多くの教育現場では「暴力」が日常化しています。 >その中には、一部の不届き者の教員による学校内での盗撮や体罰も含まれますが、それだけではありません。 >児童・生徒から「殴られた」「蹴られた」「机を投げられた」といった教員からの被害報告も相次いでいます。 >両者の違いは、不祥事教員は大きく報道される一方、子供の案件はほぼ報じられることはないということです。 >ある女性教員は、児童から給食に薬を入れられました。 >別の学校では、児童同士の喧嘩を止めに入った教員がシャーペンで刺されました。 >さらに、都内の小学校では、ICT教育の一環で支給されたタブレット端末でアダルト動画を校内で視聴していた児童を教員が注意したところ、「うるせー」と言い返されたといいます。 >明らかな暴言、暴力、物損――。 >ところが、いずれも警察沙汰にならず、注意だけで終わりました。 >「騒げば学校の評判に関わる」「処分が出れば管理職の責任になる」。 >多くの教員は、「穏便に済ませてください」「刺激しないように」と上から止められます。 >教員が「やられても我慢する」ことが半ば常識化しつつあるのです。
‘ならぬ堪忍するが堪忍’ ですかね。
>サンドバッグ状態で耐えるのみ >こうした教員を見下したような子供たちの言動は最近始まった現象ではありません。 >十数年前、ある教員が何度注意しても教室に入らない生徒に対して、胸ぐらをつかみ、つい「いい加減にしなさい」と声を荒らげてしまいました。 >すると生徒はこう言い放ちました。 >「訴えてやる。 >教育委員会に言うぞ」 >教員の行為は確かに行き過ぎです。 >ただ、反省するそぶりを一切見せない生徒の態度もよくありません。 >何より教育の根幹である教員と生徒の信頼関係が崩壊しており、何らかの指導が必要なのは明白です。 >それでも学校は教員を守ろうとはしません。 >教員は管理職から「問題を公にするな」と口止めされ、教育委員会からは「(胸ぐらつかんだことへの)処分は避けられない」と告げられたと証言します。 >その後、教員は退職しました。 >生徒は「勝った」と笑っていたといいます。 >いまの教室では、「教員が子どもに遠慮する」構図が定着しています。 >暴力や暴言に毅然と叱れば「パワハラ」。 >強く注意すれば「不適切指導」。 >結果、何も言わず、何もせず、ただ耐える――。 >そうしなければ、自分が処分されるのです。 >両手両足を縛られて「全力で闘え」と命じられる、まるでサンドバッグだ。 >そんなふうに自分の立場を表現する教員仲間もいます。 >ある中堅教員は言います。 >「子どもを少し注意しただけで怒鳴り込んでくる保護者がいると思うと、何もできません」 >教員は、子どもではなく大人の顔色を見て指導しています。 >結果、叱るべき時に叱れず、ひたすら「子どもの自由を尊重する」ことのみ重視する教員が増えているのです。 >規律も何もなしでは、やりたい放題の子が出てくるのは、当たり前の話です。
そうですね。自由は意思の自由です。意思のはっきりしない子供に自由はありませんね。
>かつて、子どもが問題行動をすれば、保護者は「私の子育てが至らないばかりに」と平身低頭で謝りに来るケースもあったといいます。 >今は全く違います。 >わが子の訴えのみを100%信じて、「うちの子はやっていないと言っています。 >先生が子どもを疑うんですか!」と怒鳴り込んでくる保護者が増えました。 >このとき、論理的な説明は無意味です。 >感情に任せた罵詈雑言の嵐が過ぎ去るまで、ひたすら黙って耐え続けるしかありません。 >下手に言い返せば、相手はさらにヒートアップし、状況は悪化していきます。 >「治外法権」の学校現場 >文部科学省の体罰基準では、「殴る・蹴る・投げる」は明確な体罰とされています。 >しかし現場では、指導上必要な場合での「腕を掴む」「制止する」「声を荒らげる」までがグレーゾーン扱いです。 >事実上、体罰扱いされるということです。 >教員が生徒を止めようとしても、「体罰だ」「暴力だ」と訴えられれば終わりです。 >堪忍袋の緒が切れたある教員が警察に届け出ようとした時、校長は言ったそうです。 >「そんなことをしたら、あなたの経歴に傷がつきますよ」 >被害者である教員が、沈黙を強いられるのです。 >海外では、学校弁護士(スクールロイヤー)が常駐し、トラブル対応を専門家が担う例も珍しくありません。
学校には法律家が必要ですね。お互いに馴れ合っていては国が潰れます。
>一方、日本では現場の最前線に立つ教員が、いわば法のすき間に放り出された状態。 >学校は子どもが“治外法権”状態に置かれているからです。 >教員が行えば懲戒免職になり得る行為でも、子どもたちは無罪放免。 >「守られない職業」にやるせなさを感じる教員は少なくありません。 >教育の本質は「信頼」にある >教育とは、年齢的に未熟な人間が社会性を身に付けていく営みです。 >未成年である児童・生徒が間違った言動をしても、教員は寛容に受け止め、正しい方向へ導くべきでしょう。 >ただ、そんな未成年者であっても最低限の責任を持たなければ、学校生活は成り立ちません。 >許容できる限度というものがあります。 >拙著『正しい思考法 芯をもって生きるための教員の信念100』(明治図書出版)でも触れましたが、私は学級開きの際、「敗北宣言」として子どもたちにこう伝えます。 >〈どんなに手がかかっても、どれだけ私の言葉を無視されても、見捨てることはしません。 >だからお願いをします。 >「私には言葉で伝えるしか手段がない。 >だから話は聞いてほしい」〉 >子どもが「聞かない」と決めてしまえば、どんなに情熱を注いでも伝えることはできません。 >これは保護者との関係も同じです。 >教員はお願いし、協力してもらうしかないのです。 >教員が子どもを信じ、子どもが教員を信じ、保護者が学校を信じる。
日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。責任のない人間には信頼がない。信無くば立たず。(政治というものは 民 (民衆) の信頼無くして成り立つものではない。) [論語・顔淵]
>この三者の信頼が崩れたとき、教育はただの「管理」に変わってしまいます。
そうですね。権威主義の政治が行われますね。
>スクールロイヤーの導入を >教員はビジネスパーソンと同じ労働者です。 >勤務環境が著しく悪ければ働くことはできません。 >もし、児童・生徒とのトラブルが起きたときに、責任を教員個人にのみ問うのではなく、組織として支える仕組みが必要ではないでしょうか。
日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。今ある姿 (things as they are) があって、あるべき姿 (things as they should be) がない。だから、無哲学・能天気である。
>日本でも、教育委員会や自治体がスクールロイヤーを導入し、心理士や警察OBと連携する。 >そして、現場の声を吸い上げる仕組みを作る時期にきていると痛感しています。 >しかるべき理由がある限り、教員が安心して「叱る」ことができ、子どもが「叱られて育つ」ことができる。
そうですね。何処の国のアニマルにも調教は必要ですね。
>それが、本来の教育の姿だと思います。 >児童・生徒・保護者と何かトラブルが起これば、教員は「自分の落ち度」と思い込み、無理を重ね、心身を壊していく。 >そんな事例が後を絶ちません。
そうですね。日本人の馴れ合いは国を破壊しますね。
>今後、ケースによっては教員も声を上げられる体制を、文科省や教育委員会が整備できなければ、日本の学校は残念ながら崩壊へと向かってしまうと危惧しています
そうですね。 日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。 日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。‘以心伝心・阿吽の呼吸・つうかあの仲’といったところか。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>---------- 松尾 英明(まつお・ひであき) 公立小学校教員 「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小等を経て研究し、現職。 >単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。 >学級づくり修養会「HOPE」主宰。 >『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆。 >メルマガ「二十代で身に付けたい!教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。 >2021年まで部門連続受賞。 >ブログ「教師の寺子屋」主催。 > ----------
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