時制がなければ、個人の発言は、実況放送・現状報告ばかりの内容になる。その内容に個人的な差異があれば、事実関係調べになる。そして、一致を見て安心する。ひとびとは一致を確信している。現実肯定主義の人となる。この種の作業ばかりを繰り返していると、自分は真理の世界に済んでいるような気持になる。間違いのない世界に住んでいると錯覚を起こす。まさか、この国がひっくり返るとは、考えられない。ひっくりかえったら、茫然自失となる。戦後の180度転換は、現実肯定主義者にとっては当然のことである。何の不思議もない。頭の外側が存在して、内側が存在しないからである。序列権威の下で、教え込まれた内容に異論・反論を企てることは難しい。子供は正解の暗記に余念がない。そこには、試験地獄が待っている。「大学卒を含め、日本の子供たちが習う物事の中核は、主として一八歳までに吸収される」とギブニー氏は <人は城、人は石垣> の中で述べている。このギブニー氏の見解と、学生生活を遊んですごす大学生の文化に対する認識は一致しているようである。だから、日本語による高等教育は成り立っていないといえる。銭失いである。 人間には一人一人にそれぞれの哲学が必要である。その内容は、それぞれの人に聞いてみなければ分からない。だから、面接試験が人物考査になる。受験生は、一律の答えを用意する暗記物の勉強に狂奔する必要はない。哲学は、非現実の内容である。だから、他人と馬を合わせる努力も必要なく、自分自身で考えて、その内容を述べればよい。この場合、非現実の内容を現実の内容のように辻褄を合わせて述べる必要がある。これは、英米人の高等教育となっている。もしも、非現実の内容を、現実の内容に変換できれば、それは創造力を発揮したことになる。人間にしかない力を発揮できたことになる。 現実 (現在)の内容と非現実 (過去・現在・未来) の内容の区別は難しい。だから、高等教育になっている。日本語には時制がないから、非現実の構文は考えられない。だが、日本語に現在時制だけが存在すると考えれば、ほんのわずかに哲学的考察ができないでもない。非現実の内容を現在構文で表せば、「人は生まれながらにして、平等である」というところを、現実の内容として表せば「人は万事において、不平等にできている」ということになる。だが、日本語脳裏では、現実と非現実の並列は難しい。中庸の徳が成り立たないので、現実派と非現実派の溝はきわめて深い。非現実の内容を、現実の内容に変換できる人は、取りも直さず世の中を直す「偉人」ということになろう。理想を考える力がなければ、現実肯定主義にとどまるしかない。我が国は、聖人の出にくい土地柄でもある。こどもの国というところか。 http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/ http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/