>「権利」や「自由」という名の自己中がはびこる昨今、「“自由”の履き違え」「行き過ぎた“権利”」などの批判がたびたびなされるが、そもそも「自由」「権利」という概念自体が胡散臭いというか、もともと要求のための言葉だったのではないだろうか。
そうでしょうね。要求の叫びだったのでしょうね。「自由」の要求、「権利」の要求でしょう。 >もし、そういう環境にいれるとしたら、それはTちゃんに自由とか権利があるんじゃなくって、そうしてくれる誰かがおるからやでな。 >感謝の心を失わせて、してもらえて当たり前とうい傲慢な人間にしてしまうからな」
自由とか権利は、相互に認め合うものでしょう。互恵の念ですね。
‘不自由を常と思えば不足なし’ ですね。’ありがたや節’ のようなものですか。
「己を正当化する言葉」を使う場合も、「相手に目を向けさせてくれる言葉」を使う場合も、日本人は相手との対話を考えていませんね。哲学が無いので、世界観がない。自己の世界観をもとにして相手との対話をしなければ未来社会の建設に関する協力は成り立ちませんね。日本人には意思がなくて、恣意がある。恣意では話にならない。だから、日本人には相手との対話はなりたたない。
>己を正当化する言葉を使うと、己自身も周りも、自己中に陥っていると気づけなくなってしまう。 自己中心主義は良くないですね。だが、日本人には意思が無くて、恣意(私意・我がまま・身勝手)がある。だから、自己中心主義にならざるを得ませんね。意思は未来時制の文章であり、文章には意味がある。矛盾もあれば、それを指摘することができる。だから、議論の対象になる。だが、日本語の文法には時制がない。それで、恣意はバラバラな単語であって、文章にならない、意味もなければ、矛盾さえ指摘できない。だから、相手との対話は成り立たず、問答無用になる。’自分さえ善ければ’ と考えざるを得なくなる。すなわち、自己中心主義になる。
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