>今日も暇でネットを見てみたら、ホリエモンが井筒監督を「人間として最低”という記事が飛び出す。>提供者は日刊スポーツ。>スポニチにはもっとまともな日本語が書ける記者はいないのかね?>それはともかく内容は井筒が何処かの雑誌に「最近の映画は売り上げ重視で表面だけとらえた虚像作品ばかりだ、もっと実のあるものを」と述べたのが、ホリエモンのカンに触ったらしく「虚像が未来の産業を作って行くんだ、虚像批判は過去の遺物」と反論。>さてここで筆者が述べるのは、堀江/井筒対立の発端となった虚/実の違いは何者か、ということです。
虚 (非現実・考え) と実 (現実・実験と観察) を組み合わせて使うと、我々の生活は豊かになるのではないでしょうか。これは科学的な手法ですね。
(略) >現在問題になっているメーカーの検査データねつ造。>一般にはこれを”実”の問題と思うかもしれないが、これこそ”虚”が作った犯罪なのである。>検査済証など幾らでも偽造できる。>これこそが意味のないヒラヒラなのだ。>このヒラヒラをありがたがることこそが”虚”なのである。
実 (現実) は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。 虚 (非現実・考え) は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。わかる為には、理解が必要である。 虚を実の内容に変えることができれば、それは創造である。 実を実で再現すれば、それは模倣である。 特亜三国の人々は、模倣が得意で創造が苦手である。模倣の競争は参入者が多くて、過酷なものになりがちです。
わが国には何でもある。だが、夢・希望だけがない。 何でもあるは、現実の内容である。夢・希望は、非現実の内容である。 だから、わが国には、’現実があって非現実がない’ ということになる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 矛盾のない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正しい考えはただ一つではない。幾らでもある。人さまざまである。 矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を除去すれば正しい考えになる。だから、対話・議論は正しい考えを得るための役に立つ。
非現実 (考え) の内容を文章にするためには、文法に時制 (tense) というものが必要です。時制は、英語にはあるが日本語にはない。 時制のある文章は、非現実の独立した三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。 夢・希望の内容は、未来の事柄である。だから、未来時制の文章内容で表すことができる。時制がなければ、夢・希望もない。日本語脳の脳裏には時制が無いので、非現実の内容が思考停止の状態になっている。そして、暗記と受け売りの学習ばかりが盛んになっています。 我々日本人は、日本語と英語を共によく学び、時制の大切さを十分に理解して自己の考えを表現できるように努力する必要があります。 そうすれば、外国人との意見交換も円滑になるものと考えられ、実力をさらに伸ばすことが可能になります。世界に影響力を及ぼすことのできる人間が生まれます。
.
|