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2019年03月03日(日) 

 

 

>日本人は論理的に文章を組み立てるのが苦手だと言われる。>上智大学で教鞭をとる奈須正裕教授が歴史をひもとき、教育的帰結として生まれた「作文下手な日本人」を浮き彫りにする。>よく、日本人は論理的に思考したり表現したりするのが苦手だと言われる。>実際、大学で教鞭をとる筆者がアメリカに送り出した留学生の中にも、最初に提出したエッセーに対して「論理性が欠如している」と評され、他の国や地域から来た学生たちと同じスタートラインにつくのに随分と苦労したと訴えた学生がいた。

 

そうでしょうね。それで、わが国では、海外留学に若者の人気が無いのですね。

 

(略)

>鈴木 [三重吉] は、作文教育についても積極的に発言し、お手本の模倣や空想による練習ではなく、子どもが「ただ見たまま、聞いたまま、考えたまま」を、型にとらわれず自由にのびのびと書く「子どもらしい」「ありのままの真実を綴る」作品を推奨した。

 

それは、実況放送・現状報告の内容を示す作文ですね。日本語は、写生画のための言語のようなものですから、これなら実行可能でしょうね。

 

>『赤い鳥』が特徴的だったのは、子どもが投稿した作文や詩が掲載され、鈴木や北原による寸評が添えられたことである。>これにより、鈴木の理念は作文教育の世界に大きな影響を与えることになる。>興味深いのは、鈴木は型にとらわれず自由にと言いながら、子どもにはフィクションや思想について書かせるべきではないとした点であろう。

 

そうでしょうね。日本語でフィクションや思想を書こうとすれば、それらは哲学 (論理) にはならず、空想・妄想 (非論理) になるからです。 考えの自由は、無いようなものですね。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。多数ある。

矛盾を含む文章も、その矛盾を除去すれば、正しい考えになる。矛盾の除去には、議論・対話が役に立つ。だから、他人との話し合いは、貴重である。

 

>『赤い鳥』の作文募集要項に「空想で作ったものではなく」とわざわざ断っているほどである。 >鈴木は「事実はかける。概念、観念はかけない」と述べているが、その背後には、経験的事実の正確な叙述を重んじる大正期ならではのリアリズム重視の考え方が見え隠れしている。

 

現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。

非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。その話が分かる為には、文章の理解が必要である。文章の理解には、頭を使う必要がある。

現実の内容は、ただ一通りである。人により、その内容がまちまちであれば、事実関係調べをして統一を図る。異口同音でなくてはならない。

非現実 (考え) の内容は、人さまざまである。正しい考えが多数存在するということは、個性的な人間が多数存在することである。

現実の内容は、日本文になる。だが、非現実の内容は、日本文にならない。

非現実の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要である。ところが、日本語文法には時制が無いので、日本人の考え (概念・観念) は日本語の文章にならない。

無理をして自分の考えを文章にしようとすれば、それらは空想・妄想 (非論理) になる。

日本人の判断によれば、見ることのできる内容は、’本当’ のことである。見ることのできない内容は、’嘘’ である。誰も、’見て来たような嘘’ をつく人にはなりたくない。だから、自分自身で考えた非現実 (考え) の内容を語ろうとはしない。これが、とりもなおさず思考停止の状態である。にも拘わらず、わが国に評論家が多く存在するのは、思考停止でありながら受け売りを専門とする人が多いためである。 ここに、受験勉強の効果が表れている。

 

>作文指導をめぐり、激しい論争

>かくして、模倣や型の強制に明け暮れた明治期の作文教育への反省と改革の中から、今日にまで続く2つの伝統が生まれ、学校現場に広く根を下ろした。>その第1は、形式や技術よりも子どもの心情や態度を重視する指導理念である。>そして第2は、リアリズムを重んじ、フィクションや思想を作文の課題・対象から排除する傾向であった。

 

第1と第2のどちらの伝統も、現実の内容から離れるものでは無かったのですね。

 

>戦後を迎えると、アメリカの指導により、書く技術の向上を目指し、しっかりと形式を教える作文教育が導入されるが、学校現場では「生活綴り方」的伝統への執着に根強いものがあり、激しい論争が展開される。>________________________ >そして、結果的にアメリカの方針が根付くことはなく、具体的に、素直に、ありのままに文章を書くことによって真実を発見するという、大正期以来の「綴り方」の理念が、戦後の作文教育でも基調となった。

 

そうでしょうね。文法に時制のない言語 (日本語) を使っていては、現実を離れた (考えの) 内容の文章を作文することは無理でしょうね。

現実ばかりの内容では、考えの内容が無いので文章が浅薄なものになります。現実と非現実の両内容を示す文章は、思慮の深さを示すものになります。思慮の深い人は、現実と理想 (非現実) の間の適当なところに折り合いをみつけます。これを中庸の徳と言います。

日本語には時制がないが、英語にはある。日本人は、無哲学・能天気であるが、英米人には、哲学がある。Everyone needs a philosophy.

我々日本人も日本語と英語の両言語を学び、作文における時制の大切さをよく理解して自己の考え (非現実) を示す能力を身につけよう。さすれば、我々も外国人とも意思疎通が可能になり、より大きな国際協力ができるようになるでしょう。

 

 

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閲覧数584 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/03/03 17:30
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