>「教育において伝えられるべき価値は何か」という最初の問題に話を戻すと、それはまさに「今自分が学習している内容や、学習している という行為それ自体が確かに貴いものだという 手ごたえ」であるべきだと思う。
それは、必要なことですね。
>言葉を換えれ ば、「本当に素晴らしい真理を知ったという喜び」「自ら真理に到達しようとしている充実感」こそ、学習者が手にすべき価値なのである。
そうですね。
>その点では、教授者は様々な知識の伝達者という役 目を超えて、この「喜び、興奮」の媒介者でな ければならない。
それは、日本人にとって難しいことですね。 現実の内容は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要はない。 ところが、非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。話の筋を理解するのには、その文章を理解しなくてはならない。それで、文法が必要になる。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章になる。ところが、日本語文法には、時制というものがない。だから、非現実 (考え) の内容を日本人は、文章として発表することができない。この状態は、とりもなおさず思考停止の状態である。このような事情により、日本人は、無哲学・能天気の状態に置かれていると考えることができる。だから、話による ‘喜び・興奮’ の媒介者になることは難しい。
>「創価教育学」を創始した牧口 常三郎先生はかつて「教育は知識の切り売りや 注入ではない。
そうですね。知識の ‘切り売り・注入’ は、思考を停止している人々の日常的な作業になっていますね。
>自分の力で学ぶことを会得させ ること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ。」と述べた。
子供の頃は、毎日が新発見ばかりでしたけれどもね。
>まさに「本質的議論」であると思う。
そうですね。日本語は、写生画の言葉である。見ることができる内容は、’本当’ のことである。見ることのできないものは、’嘘’ である。誰も ‘見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくない。だから、自分自身の非現実 (考え) を語ることはしない。現実離れのした話は、常に想定外になっている。だから、無哲学・能天気でいるより仕方がない。
>アルキメデスは当時の国王から、「王冠が純金製なのか銀が混ぜられているのか、壊さないで判定する方法を考えよ」と命じられたが、自分の体が浮かぶ風呂の中で浮力に関する「アルキメデスの原理」を発見し、見事にこの難題を解決して見せた。
彼は、幸運でしたね。
>この原理をふろの中で発見したとき、アルキメデスは「ヘウレーカ(見つけたぞ)!」と叫びながら裸で街中を走り回ったと伝えられている。>これはさすがに作り話のように思えるが、まさに人類の文化の推進力は、この「ヘウレーカ!」にある。
そうですね。
>「真理への好奇心」と「真理発見の感動」によって、人類は新しい理論や技術を生み出し発展してきたのである。
そうですね。日の下に新しきものなし。されど、人は自らの考えを改めることができる。だから、学問は、永遠に進歩する。
>学校でいろいろな教科を学習する児童や生徒 も、この「ヘウレーカ!」の主人公であってほ しい。>どんなに難しい理論を扱ったとしても、 この感動が伝わらなければ教育の価値は半減す る。
そうですね。詰め込み教育は良くないですね。
>自らを超える明日のニュートンの誕生を願 い、子どもたちに感動を伝えるために、自らも新しい感動を求めて真理の探究に励むことこそ、教師のあるべき姿である。>大学での自らの授業を振り返るとき、理想と現実の落差に暗澹とさせられるが、学問探求を目指して大学の門をくぐった学生たちの学習活動が「ヘウレーカ!」に満ちたものであることを期待し、自らも一層の努力を期したいと思う。
他力本願・神頼みですか。 日本語だけで囲まれていては、無哲学・能天気の世界を脱出できませんでしょう。我々日本人も、英語にある時制を使って、自らの非現実 (考え) の内容を文章にして語るべきですね。そうすれば、現在の詰め込み教育の地獄からの脱出して真理の探究が可能になります。
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