>いかなる世代も閉塞感で埋め尽くされた状況。 > 閉塞の中で「何かをあきらめ」ながらも・・地平線の遠くに「どんなことがあっても、あきらめてはいけないもの」を望見している人がいる。
しぶとい人たちですね。
>スマートではなく泥臭いが、決して目の前の状況から目をそらさない・・その状態を内田樹氏は「半分あきらめて生きる」と表現しています。 > 紹介します。 > 内田樹の研究室 「半分あきらめて生きる」より抜粋リンク >「閉塞感」というのは、システムがすでに順調に機能しなくなり始めていることの徴候である。 >制度が、立ち上がったときの鮮度を失い、劣化し、あちこちで崩れ始めているとき、私たちは「閉塞感」を覚える。
妄想から覚めた時でね。
>そこにはもう「生き生きとしたもの」が感じられないからだ。
それは、未来構想の欠乏状態でしょうね。
>壁の隙間から腐臭が漂い、みずみずしいエネル ギーが流れているはずの器官が硬直して、もろもろの制度がすでに可塑性や流動性を失っている。 >今の日本はそうなっている。
残念ながら、そうですね。
>それは上から下までみんな感じて いる。
それは、日本語のせいでしょう。
>システムの受益者たちでさえ、このシステムを延命させることにしだいに困難を覚え始めている。
泥船の上にいるネズミたちのようなものですね。
>一番スマートな人たちは、そろそろ店を畳んで、溜め込んだ個人資産を無傷で持ち出して、「日本ではないところ」に逃げる用意を始めている。
中国人のようなものですね。日僑の始まりかな。
>シンガポールや香港に租税回避したり、子供たちを中学から海外の学校 に送り出す趨勢や、日本語より英語ができることをありがたがる風潮は、その「逃げ支度」のひとつの徴候である。>彼らはシステムが瓦解する場には居合わせたくないのである。
そうですね。一億総玉砕は悲惨ですからね。
>破局的な事態が訪れたあと、損壊を免れたわずかばかりの資源と手元に残っただけの道具を使って、瓦礫から「新しい社会」を再建するというような面倒な仕事を彼らは引き受ける気がない。
建国の意思は毛頭ない。これまでも、海外に日本人が建国したことは一度もない。
>だから、私たちがこの先頼りにできるのは、今のところあまりスマートには見えないけれど、いずれ「ひどいこと」が起きたときに、どこにも逃げず、ここに踏みとどまって、ささやかだが、それなりに条理の通った、手触りの優しい場、人間が共同的に生きることのできる場所を手作りしてくれる人々だということになる。>私はそう思っている。
都合の良い人たちの存在ですね。
>いずれそのような重大な責務を担うことになる子供たちは、たぶん今の学校教育の場ではあまり「ぱっとしない」のだろうと思う。
要領の悪い子供たちですかね。
>「これを勉強するといいことがある」というタイプの利益誘導にさっぱり反応せず、「グローバル人材育成」戦略にも乗らず、「英語ができる日本人」にもなりたがる様子もなく、遠い眼をして物思いに耽っている。
彼等は、宣伝文句に踊らされない子供達ですね。
>彼らはたしかに何かを「あきらめている」のだが、それは地平線の遠くに「どんなことがあっても、あきらめてはいけないもの」を望見しているからである。>たぶんそうだと思う。
諦めているのは、自分自身の夢を描くこと。諦められないのは、この地を離れること。死後も草葉の陰から、こちらの方をじっと眺めている。我々は、何処にも行かない。 日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、過去・現在・未来の非現実 (考え) の世界を文章内容にすることができない。だから、日本人には世界観がない。未来の世界の内容は想定外になっている。 目の前り現実を見て閉塞感を感じる。 我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を良く理解して未来社会の構想を述べる訓練をするのが良い。さすれば、現今の閉塞感は、すぐに霧散する。
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