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2019年05月18日(土) 

 

(略)

> 試験に大きな影響力を持たせることが、教育にどのような影響をもたらすかについては多くの議論がなされてきたが、テストの性質そのものにも注意を向ける必要がある。>テストは多くの場合、内容が標準化された多肢選択式で、ある特定の世界観を助長するものだ。

 

多肢選択式は、採点の手間が省けますね。

 

> 次の2つの出題文の違いを考えてみよう。

>1. この詩を読んで、作者の主なメッセージは何かを答えなさい。 >作者が伝えようとしていることについて、特定の言葉やイメージが重要な役割を果たしている証拠を示すこと。 >採点基準は、あなたが自分の考えをいかにうまく説明し、それに対する裏付けを示せるかです。

 

記述式の回答方法ですね。

 

>2. この詩を読んで、次の4つの文のうち、著者の主なメッセージとして正しいものを一つ選びなさい。 >また、この詩からの4つの引用部分のうち、先ほど選んだ著者の主なメッセージを裏付ける上で最も重要な証拠を選びなさい。 >正しい答えは一つだけです。

 

4のうちの1を回答する方式ですね。

 

> 最初の問題文では、生徒が自らの考えを模索し、考え、その証拠を提示することを促している。 >生徒がすべきことは、思考し、自分の考えを表現することだ。

 

そうですね。思考内容を示さなくてはなりませんね。

 

>一方で2つ目の問題文では、問題に関する議論は既に決着がついており、誰か他の人が唯一の正しい答えを知っていると示唆している。 >生徒がすべきことは、その人が正解だと思うものはどれかを考えることだ。

 

そうですね。正解を当てることですね。

 

>2つ目の問題文は、思考を妨げるものだ。「最も重要な証拠は何か」と問われた生徒の多くは自分の意見が問われているのだと思うだろうが、これに正解するためには自分の意見や考えを脇に置き、試験を作った人の意見や考えを予想しなければならない。

 

そうですね。回答方法は、当てものの形式ですね。

 

> 言うまでもなく、2つ目の問題文は標準化された多肢選択式テストの手法だ。>この問題形式を学校の教育課程を通じて使用し続けることで、数学と文学の世界は探索と発見に開かれたものではなく、全ての問いには既に答えが用意され、いかなる探索も思考も必要ないものであるという考えを生徒に刷り込んでいる。

 

そういうことになりますね。

 

>生徒が学ぶのは、規則に従い、自分の前に敷かれた道から外れないようにすることだ。> 標準化テストでは、その詩を書いた張本人でさえも答えられないような問題が出されている。

 

残念なことです。

 

>選択肢を提示してその中からたった一つの“正しい解答”を選ぶという根本的な構造をやめない限り、私たちはこうした反思考的な世界から抜け出せない。

 

そうですね。回答は、当てものになりますね。

 

>一つ一つのテストや問いが、世界における知識や理解の本質に関して根本的に問題のある考え方を生徒に押し付けている。 >こうした問題は生徒に対し、自立的かつ自由回答型で探求心のある思考は世界を生きていくためには必要ない、あるいは望まれないものだという考え方を教えているのだ。

 

そういうことになりますね。

 

> 私たちは生徒たちに対し、自分では思考をせずに、テストの問題作成者が作った道に続くことだけを考えるよう教えている。

 

暗記と受け売りの練習になりますね。

 

>全ての答えには正しい答えが一つだけあるということ、その正解をどこかの誰かが既に知っているということ、そしてこうした人たちが自分に望む解答を学ぶために学校に行くのだということを教えてしまっているのだ。

 

そうでしょうね。危険ですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

矛盾を含んでいない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。考えは、人さまざまである。だから、正解は、いくらでもある。

英文法には、時制 (tense) というものがある。時制のある文章は、非現実 (考え) の独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容を表すことができる。白紙の状態であるから、英米人は思春期になると気になって仕方がない。そこで、人は ‘考える人’ になる。そして、自分なりに空白を埋めることになる。すると、その人の世界観ができ上がる。その世界観が基準になって、批判精神が発揮される。だから、各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. 日本語文法には時制がないので、日本人には世界観がなく、批判精神も存在しない。

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。考える必要は無い。見ればわかる。楽ちんである。正解は、唯一つである。現実のみを知る人は、無哲学・能天気の人となる。日の下に新しきものなし。退屈男・退屈女が出てくる。貴重な四年間を大学のキャンパスで遊んで暮らすことになる。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、その文章を理解しなくてはならない。だから、聞き手は、考える人にならなくてはならない。骨が折れる。考える人になる為には、英米流の高等教育が必要である。無哲学・能天気な人間は、この段階で落伍する。

 

(略)

 

 

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閲覧数466 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/05/18 05:52
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