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2019年06月14日(金) 

 

 

>能動の人

> 高校生たちと話をして、人生を主体的に生きるということはどういう事かを考えながら、福島から帰ってきた。>能動的に自分の人生を生きようと私はよく言う。

 

自己の意思があれば、能動も可能でしょう。意思がなければ、受動しかない。

 

>能動的に生きるというのは自らの人生の先手をとるという事だと思う。

 

そうでしょうか。能動的というのは、他と先陣争いをすることではないでしょう。

 

>例えば飲み会がある。>一番最初の一言目を言う人になろうとするかどうか。>シンとした数百人いる空間で一番最初に質問するかどうか。

 

それらは、意思によるものではなくて、恣意 (私意・我儘・身勝手) によるものでしょうね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。意思は文章内容があり、意味がある。恣意は、バラバラな単語のまま (小言・片言・独り言) で存在し、意味もない。

 

>人間の行動を支配しているものの大部分は習慣からくるものだと思う。

 

そうですね。人もアニマルも私意的に行動していますね。

 

>能動的な人は習慣を把握し、それを変えようとする。

 

彼にリーズン (理性・理由・適当) があれば、そうするでしょうね。

 

>能動的に生きていても組織の下にいる場合もあると思う。>けれどもその人は選んでそこにいるのだと考えている。>いない事も選べる中、あえて選んでそこにいるのだその人は考える。

 

自由とは、意思の自由のことですね。意思がない人には、自由にも意味がない。不自由を常と思えば不足なし。

 

>いや、そんな事はないそこをやめてしまえば生きていけないから仕方なくそこにいるのだと人は言う。

 

受動的 (消極的) な人生ですね。

 

>人生には制限がつきもので、その制限の中でも選択肢はなお残っている。>そして能動的な人は選べない選択肢ではなく、選べる選択肢の中からあえて自分の意志でそれを選ぶ。

 

そうですね。

 

>能動的に生きるかどうかは、賢さや、知識量の問題ではなく、勇気の問題だ。

 

それも、言語の性質にもよる影響が大きいでしょうね。

 

>自分の行動が他人からどう思われるのかを気にしすぎている人は、能動の人になれない。

 

そうですね。上とみるか・下とみるかの判断に囚われていると、恥ずかしくてたまらないです。

 

>したい事ではなくすべき事に縛られて行動が決まっている。>選んでいるようで選んでいない。

 

そうですね。弟子が師に教えを乞う習慣のようなものでしょうね。

 

>幼少期から続く常識的な振る舞いに縛られて行動をしている。>能動的でない人は、常識的な振る舞いを選ぶわけではなく、それしか選べない。> 私たちは相当に制限がかかった人生を生きている。

 

そうですね。日本人の場合、礼儀作法を守ればそれは序列作法になっている。

 

>そもそも生まれた人種に制限され、生まれた国に制限され、言語に制限され、能力に制限され、親の収入に制限され、その国の文化的常識に制限され生きている。

 

そうですね。無哲学・能天気な人間になっている。

 

>それらは習慣として体に刻まれ、何も考えずに生きれば習った通りに考え動く人生が待っている。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制がない。だから、日本人には意思がない。英文法には、時制がある。だから、英米人には意思がある。

意思のある人は、能動的な行動が可能である。意思の無い人は、受動的な行動しかとることができない。かくして、日本はアメリカのポチになるのか。

 

>能動の人は、リスクをとる人である。>いつもと違う事をしてみる人である。>そして、その場の何かを自分から変えてみようとする人である。

 

そうですね。

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

>能動の人は行動をし、行動によって機会を得て、その機会によって自らを変える人である。 

 

そうですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.

我々日本人は、日本語と英語を良く学び、時制の役割を十分に理解して自己の意思の表現に努めよう。さすれば、国際的にも信頼される人になることができる。

 

 

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閲覧数381 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/06/14 21:19
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