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2019年06月20日(木) 

 

 

>以前「自立と共生」の項で、日本語と対比して「英語的発想ばかりだと自然環境を守ることが難しくなる」と書いたけれど、ここで、日本語の持つ「環境を守る力」について纏めておきたい。

>まずは“日本語は亡びない”金谷武洋著(ちくま新書)から引用しよう。

>(引用開始)

> 日本語をよく観察すると、日本人がいかに「対話の場」を大切にする民族かということに驚く。>話し手である自分がいて、自分の前に聞き手がいる。>聞き手は二人以上のこともあるが多くは一人だ。 >ここで大切なのは、この「対話の場」に<我>と<汝>が一体となって溶け込むということだ。

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

非現実・考えの内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するには、その文章を理解する必要がある。だから、聞き手は、考え人にならざるを得ない。これは、しんどい事である。

矛盾を含まない全ての文章は、正しい考えを示している。考えは、人さまざまである。だから、正解は、一つではない。多数存在する。

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。だから、楽ちんである。

見ることのできる内容は、’本当’ のことである。見ることのできない内容は、’嘘’ である。誰も、見て来たような嘘をつく人間にはなりたくない。だから、誰も非現実 (考え) の内容を語る者はいない。そうこうするうちに、非現実 (考え) の内容は、想定外になっている。これが、とりもなおさず日本人の思考停止の状態である。

矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えを示すようになる。矛盾を取り除くためには、対話・議論は有効である。

 

>この点が日本文化の基本であるように思えてならない。>日本語における<我>は、決して「対話の場」からわが身を引き剥がして、上空から<我>と<汝>の両者を見下ろすような視線を持たない。

 

考えの内容は、人様々ですからね。対話の中にも個人主義はあるでしょう。

 

><我>の視点は常に「いま・ここ」にあり、「ここ」とは対話の場である。(中略)

 

日本語は、’今・ここ’ に立脚した言語ですね。ナウな感じのする言語ですね。日本人もナウな感じのする人間になることでしょうね。

 

> これに対して、西洋の考え方は自己から世界を切り取るところに特徴があるように思える。

 

欧米人には、世界観がありますからね。

英文法には、時制 (tense) というものがあって、非現実の独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容を文章として示すことができます。非現実 (考え) の内容を示す枠組みがありながら、それが白紙の状態であることは気になることなので、彼らは思春期になると ‘考える人’ になります。この時期は、高等教育を始める適齢期にあたります。このようにして、各自が自分なりに非現実 (考え) の空白を埋めることにより、世界観を獲得することができます。各人に哲学は、必要である。Everyone needs a philosophy. 彼等は自分自身の世界観を基準にとって現実を批判することができるので、彼らは批判精神の持ち主です。

 

>自分に地球の外の一転を与えよ、地球を動かしてみせると豪語したのはアルキメデスだった。>自分を「我思う、ゆえに我あり」と、思考する<我>を世界と対峙させることで<我>の存在証明にしようと試みたのはデカルト(『方法序説』一六三七)である。>端的に言えば、西洋の<我>は<汝>と切れて向き合うが、日本の<我>は<汝>と繋がり、同じ方向を向いて視線を溶け合わすと言えるだろう。

 

自分と相手では、考えの内容も同じにはならないでしょう。それが明確に区別できない言語であるとしたら、日本語での自己実現も難しくなりますね。

 

>(引用終了)

(略)

 

 

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閲覧数353 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/06/20 22:34
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