>―日本国内では保守にしろ革新にしろ、「米国の属国では駄目だ」という主張を唱えると、あたかも非常識な「危険思想」を掲げているようなイメージすらもたれてしまう。>この国のメンタリティーはどこかが麻痺してしまったのでしょうか。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の判断は、日本人とって掛替えのないものとなっています。世俗の上下判断が正しくなければ、正しい日本語を話すこともできません。これは、大変なことです。 又、日本人の礼儀作法は序列作法に基づいているので、世俗の上下判断を心得ていないと、礼儀正しい日本人にはなれません。’人を見損なってはいけない’ と言う想いは、我が国民の脅迫観念の域に達していて、善良な日本人は神経をすり減らす状態にあります。
> 内田 反米は日本の場合、左翼の思想的な柱なんです。>でも、左翼は戦後も負け続けなわけですよ。
‘鬼畜米英’ の掛け声は、戦前・戦中にもありましたね。戦後も、国民には通じないのでしょうかね。
>そして、負け続けた政治運動は自分の弱さを認めるより、敵の強大さを大きく見積もることで、敗北を正当化する傾向がある。>日本の左翼はそうなんです。
極悪の野党は、信頼できない与党に勝てないですね。十分な反省ができなければ、自己改革は望み薄ですね。
>「米国の支配を脱する」ということを口では言うけれど、そんなこと実現するはずがないとひそかには思っている。
意思の無い国民の能動はありえないでしょうね。
>そんな力が自分たちにあるはずないと思っている。
我々の無意志は、無力感とつながっていますね。
>でも、実行力の裏付けがないままにスローガンだけ掲げていると、思考がだんだん鈍ってくるんです。
そうですね。お題目を唱えるだけでは、思考がだんだん鈍りますね。
>「われわれには現状を変える能力がない」という事実認識が、「現状を変える権限がない」という権利問題になり、やがて「現状を変える責任がない」という責任問題にずれ込む。>だって、権限のない人間に責任の取りようがないもの。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。従って、日本語の脳裏には、未来時制がない。だから、日本人には、意思がない。 意思の無い人には、責任がない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。 意思のある人に権力を与えれば、彼は力を発揮する。そして、指導力を発揮することができる。意思の無い指導者は、床の間の置物になる。
>だから、左翼は「米国の支配を脱する」と言いながら、もし実際に米国が日本列島を軍事的放棄した場合に国防をどうするかといったタイプのリアルなシミュレーションをしたことがない。
日本人には、世界観がない。だから、グランドデザインとかマスタープランの内容などは想定外になっている。
> 国防ということを考えたら、反対派もふくめて国民的統合を果たし、敵対者の政治的意見をも代表しうるようなスケールの大きな「国民国家についての物語」を提示できなければいけない。
そうですね。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えを示すものになる。そのためには、対話・議論が有用です。
>でも、左翼はそういうことは考えないんです。>それだと、さきの戦争に負けたことの責任は左翼にもあるということを認めることになるから。
左翼は、自分自身には敗戦の責任がないと信じているのですかね。左翼は、確実に日本の国内にあって、日本には属していない。
>戦争を始めて、負けたことを左翼もまた自己責任として受け入れるという決断をしない限り、国民的統合は果たせない。
そうですね。意識改革が必要ですね。‘一億一心’ が必要ですね。
>でも、左翼はそのような「責任の割り前」を絶対に受け容れない。
日本人には、意思がない。左翼には、意思に基づく責任感もないですからね。
>あれは一部の軍国主義者たちがやったことで、われわれは純然たる被害者である、と。 >そういう話になっている。
意思の無い人間には、自分の能動的な行為は考えられませんね。自分は、常に受動的で被害者である。そういう話になっている。
>でも、明治維新以来の国民国家としての功罪をまとめて引き受けて、遺産も負債もぜんぶ相続するという決断をしないと、国民国家をまとめ上げて、牽引することはできない。
そうですね。全てを引き受けるか、全てを捨てるかですね。日本人の得意な ‘良いとこ取り’ は、不可能であることを知るべきですね。
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