>347888 池上彰がハッキリ語るメディアの政権への「忖度」と「空気」(1) >佐藤晴彦 ( 61 会社員 ) 19/07/24 AM10 >リンクより引用します。 > ******************************** >ジャーナリストの池上彰は、昨年より講談社のPR誌『本』で「伝える仕事」と題するエッセイを連載している。 >今年6月号の第15回では、「忖度と空気について考える」というサブタイトルを掲げ、権力に対するテレビや新聞などマスコミ業界の忖度の実態が語られた。>書店で無料で配布されている小冊子での連載のためか、さほど話題にはなっていないようだが、テレビで人気を集める池上が、メディアにおける「忖度」の実態に言及したのは意義深いと思う。
テレビの売れっ子が口を開けば、反響は大きいでしょうね。
>■「圧力」から「忖度」へ >池上はこの回でまず、忖度という言葉について《本来は相手の立場や気持ちを慮るという麗しい配慮を指す言葉だったはずなのですが、いまや上司や権力者の気持ちを勝手に解釈して、怒らせないようにしよう、喜ばせよう、と自主的に動くことを言います。>とりわけ官僚の世界に、蔓延しているようです》と、近年になってその意味が変わってきたことを指摘している。
この言葉の神髄は、’気の利く日本人’ を表していますね。
>そのうえで、自分が仕事をしているテレビの世界にも《忖度はあるのか。あるのです。かつてのような政治家からの露骨な圧力はなくなりましたが、圧力を受ける前に忖度し、結果的に圧力がかからないという状態になっているように思えます》と、はっきりと書く。
我が国民の ‘おもてなし’ の精神の表れですね。
>かつてテレビの世界では、政治家からあからさまな圧力を受けて、予定されていた番組の放送が中止されたり、ニュースキャスターが降板するということもあった。
序列社会の世俗的な序列観念がものを言った時代ですね。
>1968年には、TBSのニュース番組「JNNニュースコープ」でのベトナム戦争報道を「反米的」と捉えた与党自民党の幹部が、TBSの社長を党本部に呼びつけ、結果的にキャスターの田英夫が番組降板に追い込まれている。>このとき、TBSの社長に対し、当時の自民党幹事長の福田赳夫(のちの首相)は、放送免許の剥奪すら匂わせたといわれる。
自由とは、意思の自由のことですが、意思の存在しないわが国の社会においては、恣意の自由 (自由のはき違え) が猛威を振るいますね。これは、戦後教育のお粗末さの表れでしょう。 意思は、未来時制の文章内容ですが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制は存在しません。それで、日本人には、意思がありません。 わが国には、意思がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意は、鳥なき里の蝙蝠のような存在です。
>キャスターの降板というと、近年でも、2016年にNHKの「クローズアップ現代」のキャスターだった国谷裕子が番組を降板したことが思い出される。>しかしそれは、田英夫のときのように政権からの圧力によるものではなかった。>このケースでは、現場は抵抗したものの、上層部からの指示で交代が決まったとされる。>NHKの元記者である池上が同局内の知人から得た情報によれば、《菅義偉内閣官房長官への国谷さんのインタビューについて「官邸が不快感を示している」という情報を知った幹部が「忖度」して国谷さんの降板を指示した》という。
幹部は、おもてなしの精神を大いに発揮したのですね。
> 池上によると、こうした忖度が発生するようになったのは、2006年の第1次安倍政権の誕生からだという。>これ以降、《ニュース番組で政権に批判的なコメントが出ると、総理官邸のスタッフあるいは自民党から、局にひとつひとつクレームが入るようになりました。>メディア報道を厳しく監視するようになったのです》。
反論は、公言すると良いですね。その方が、すっきりして気持ちが良いです。恣意 (私意・我儘・身勝手) は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在し文章にならないので、意味も無ければ意義もない。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。だから、議論の対象にもなりませんね。 司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>その後の民主党政権でも同様の動きはあったが、2012年に第2次安倍政権が発足すると、一段とチェックが強まり、「なぜ政権の言い分をしっかり伝えないのか」「内容にバランスを欠いている」などと細かい指摘が連日のように続くことになる。
‘小言・片言・独り言’ の類ですね。政権は、自己の能動を考えられないのですね。
> 池上は、テレビ局において政権への忖度が発生するメカニズムをこのように説明する。> 《こんな抗議や注文があったからといって、放送局側がすぐに委縮することはないのですが、次第に「面倒だなあ」という空気が浸透します。>抗議があるたびに誰かが対応しなければなりません。 >それが続くと、「抗議が来ると面倒だから、このコメントはやめておこう」といった配慮を現場が自主的にするようになってきたのです。
やくざが言論界に野放しになっている状態ですね。内閣による議論撲滅作戦のようなものですね。
>忖度というよりは「面倒だからやめておく」という空気なのです。
わが国は、恣意の横行する社会ですね。議論にもならない相手が裏通りにたむろする社会は異常ですね。
>/こうなれば政権は、「我々は圧力などかけていない」と言えます。>その通りだからです。>でも、それでいいのか。>外から見れば、「現場が委縮している」ように見えるのです》
‘恣意が通れば、意思が引っ込む’ ですね。
>こうした「面倒だからやめておく」という空気はいまやテレビだけでなく、新聞業界にも漂っているらしい。
日本語の弊害は、今やわが国の隅々にまで拡がっていますね。
>池上がある大手新聞社(原文では実名)の記者から聞いた話によると、その新聞社では、《安倍政権に批判的な集会があると知っても、「どうせ取材しても紙面に載らないか、小さな扱いになるだろう」と記者たちが考えて、取材に行かない》という。
残念な状態ですね。閉塞感がある。短調の歌でも口ずさむしかない。
>このように、いまのメディア内部の状況を知ると、愕然とせざるをえない。>権力の監視は、報道機関たるマスメディアが果たすべき大きな役割のひとつである。
そうですね。
>それが現状では、直接圧力を受けたわけでもないのに、メディアの側が自らその役割を放棄しているというのだから、権力側からすればこれほど御しやすいことはないだろう。
日本人は、おとなしい民族ですね。’あるべき姿’ の内容は、常に想定外になっているのでしょうね。
>(続く) (略)
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