儒教 1/2|
>大東亜戦争では「八紘一宇」という理念が掲げられたが、これも人々の間の和と思い遣りを至上とする儒教的価値観である。
大東亜戦争は、儒教的価値観に基づく戦争でしたかね。
>これは神武天皇に由来するとされるが、神武天皇は日本の先住民族の王であったと思われる出雲の大国主命を虐殺してその土地を占領した人物であり、そこには思い遣りも和も感じられない。 >出雲大社が日本最大の建築物とされてきたのは、国を奪われ命も奪われた大国主命の強い怨念を封じ込めるためであるという井沢元彦氏の指摘は恐らく真実だろう。
そうかもしれませんね。
>「八紘一宇」は大正時代に作られた概念であり、元来は「神武天皇による先住民虐殺と日本統一」を意味するに過ぎないと思われる。>従ってこれは日本人の世界観には該当させるべきで無い。
そういうことになるでしょうかね。
> 「自然との共生」も日本人の価値観の一つだが、これは神道というシャーマニズム的宗教を日本が持つことに関係していると思われる。>そして、日本以外のシャーマニズム系集団にも共通する価値観のように思われる。
神道は、シャーマニズムですかね。
>これも確かに重要であるが、「仁=思い遣り」や「和」を超える重要性があるとは思えない。
‘仁’ や ‘和’ は、徳目して暗記物になっていますね。
>我々は神道にのみ注目すべきでは無く、世界の各民族のシャーマニズム的多神教(道教やヒンズー教を含む)を比較・分析していくべきである。
シャーマニズム的多神教の比較・分析がすすむと良いですね。
> 「島国であること」も日本人の自己認識の一つだが、日本人と全く相容れない世界観を持つ米英人も自己を「世界島周囲の大洋に浮かぶ島国」と自己認識しているのであり、日本人の世界観とするべきではないだろう。
非現実 (考え) の内容は、時制のある文章内容として表現される。時制 (tense) のある文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。これは、世界観 (非現実) と呼ばれるものである。初めは、誰もがその内容は白紙の状態である。各人が、個人的に少しずつその空白を埋めて行く。非現実の世界の内容は、限りなく展開が可能である。’あるべき姿’ の内容は、未来時制の文章内容になっている。この内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神の持ち主ということになる。しかるに、日本人には、時制がなく世界観がない。自己の ‘あるべき姿’ の内容がなく、批判精神がない。暗記力ばかりでは、世界を動かすことはできない。
> 日本の武道は他国のスポーツと異なり、肉体を鍛えることや競技に勝つことよりも精神修養を重視する。
そうですね。日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。 意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人は仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。だから、特に精神修養を重視しなくてはならない。
(略) >では、なぜ精神修養が必要なのだろうか? >それは、「思い遣り=仁」を実現するには、全ての者が自己の欲望や怠惰な心を我慢して、同情すべきかわいそうな人に恩恵を与える必要があるからである。
日本人には、意思がない。しかし、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は、何処の国でも認められていない。だから、我慢が必要である。つまり、精神修養が必要である。
(略) > 日本人は本能的に貧富の格差の縮小を善と考えており、新自由主義やTPPに代表される格差社会に批判的である。
そうですね。日本人は、小刻みの順位差の中で生活していますから、貧富の差もまた小刻みなものになりますね。
>これは、日本人の世界観が新自由主義と相容れないことに由来する。
日本人の序列感は、新自由主義とは相容れませんね。序列感は、形式ばった堅ぐるしい感覚です。
.
|