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2019年08月27日(火) 

 

>348836 歴史に学び、仕事観を立て直す2  >山澤貴志 ( 54 鹿児島 ITコンサル )  19/08/26 PM11 【印刷用へ】 

>4. 仕事を「主体的に楽しむ」のではなく、仕事に「強制感」を感じてしまうのは何故か?

>にもかかわらず、私たちが、仕事を「主体的に楽しむ」のではなく、仕事に「強制感」を感じてしまうのは何故か?

 

日本人には意思がないからでしょう。

意思は、未来時制の文章内容である。日本語の文法には時制というものがないので、日本語の脳裏には未来時制もない。だから、日本人には意思がない。

自己の意思に基づく行為は、主体的であり楽しみを伴う。しかし、無意志の行為には、強制力を感じてしまう。

 

> 「追求充足」によって、極限的な生存圧力を克服した人類は、次第に集団規模を大きくし、ついには集団と集団が縄張りを接して同居する緊張状態を生み出していく。>そこで当初は贈与関係を構築することで、この緊張状態を緩和させていたが、5500年前、中央アジア地域が乾燥化したのをきっかけに、略奪闘争が勃発し、武力支配の時代に突入。 >戦闘集団の勝ち抜き戦を通じて、勝った者たちは財を独り占めし、負けた者たちは、自分たちの集団も土地も生産財も奪われて、勝ったものに服従し、奴隷として働くしかないという社会ができあがる。>その後、貨幣の登場によって、武力支配社会は、資力支配社会へと転換したが、私権(土地やお金)を手に入れない限り生きていけないという、「私権の強制圧力」が働いているという本質は同じである。>つまり仕事が「主体的に楽しむ」ものから、「強制感」を伴うものに転換したのは、世の中が「いやも応もない私権の強制圧力によって支配される社会」に転換したからである。

 

それもあるでしょうね。

 

> 5. 貧困の圧力の消失によって、もはや「私権の強制圧力」は無効。

>しかし、貧困の圧力が働いていればこそ、人々は私権の強制圧力に従うしかなかったが、現在では既に貧困圧力は克服。>とりわけ日本は市場縮小を上回る勢いで人口が減少しており、仕事をえり好みしたり、豪華な生活を求めなければ、生きていくために必要な仕事はそれほど過酷なものではない。

 

そうですね。

 

>むしろ、企業間のまっとうな評価競争圧力の下で、「仕事の質を巡る創造競争」の時代に突入しており、「追求充足」を活力源として、「仕事を主体的に楽しむ」基盤は既に整っている。

 

無意志の状態を続けていれば、仕事を主体的に楽しむことも難しいでしょうね。

 

> 6. 日本における「仕事=奴隷労働」の歴史は非常に短い。

> 本来、縄文人が宿していた「追求充足」の回路を全開にすれば、日本人が本当の意味での「労働の解放」を手に入れることは可能だ。>実際に江戸が繁栄したのは、江戸の日本人が縄文以来の「追求充足」の回路を全開にして、日本独自の市場経済を生み出したからに他ならない。>そしてそれが可能だったのは、略奪戦争が勃発した中央アジアから最も離れた、東海の島国であったこと、そして大陸から渡来してきた支配階級もその多くが負け組であり、彼らは日本を本格的な武力闘争で支配したのではなく、彼らの持つ稲作や製鉄などの技術力を持ってリーダーに担がれたからである。

 

我が国への技術導入の時期ですね。

 

>そのため中央集権的な制度は必ず形骸化し、土着の共同体社会が残存し続けた。>田植え歌や田植えにまつわる祭事が持つおおらかさは、日本社会には「奴隷労働観」はほぼ定着することなく、仲間とともに、追求充足を楽しむ仕事観が絶えることなく引き継がれたことを証明している。> 百姓一揆すら最近の研究では江戸時代は少なく、農民の反乱が生じたのは、明治以降、農村が商品作物を作り、その結果、飢饉に巻き込まれるようになってからだ。324191  337689  >つまり日本における「仕事=奴隷労働」の歴史は非常に短い。

 

そうですね。しかし、わが国における家畜・社畜の存在は、見逃すことができませんね。

 

>それは都市部においては明治末期頃からあっただろうが、地方の農民まで、「お金儲けしなくては生きていけない」となったのは、戦後、農地改革とともに、農村共同体が解体されてからであろう。>しかし、市場は縮小過程に入り、いざという時でも生きていける農民に比べれば、都会のサラリーマンは根無し草で、住まいを手に入れるにすらヒーヒーいっている。>何を好き好んで、サラリーマンという強制労働を選ぶのか?と疑問に思い、人々が農村回帰を強めているのは必然であろう。 >と同時に、世界中でも最も社員の活力が低いのも、私権社会・強制労働の歴史が短く、「私権の獲得なしには生きていけない」という切迫性や内在的な必然性が弱いからだ。

 

意思のあるところに方法 (仕方) がある。意思の無い人は、仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。それで、精神修養の必要性を思い付く人も少なくない。

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)

 

>日本は「金儲けのために働くという観念」と「追求充足を得たいという潜在思念」の間に断層を孕んでいる。>このままでは日本は活力衰弱から滅亡の道を歩むしかないが、旧観念を打破し、潜在思念を解放することができれば、「豊かさの実現、市場縮小社会」を突破するトップランナーになりうる可能性も秘めているのだ。 

 

そうですね。旧観念の打破と潜在思念の解放は、どのようにして成し遂げられるのでしょうかね。

 

.

 

 

 

 

 

 


閲覧数379 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/08/27 16:04
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